春田行夫

(画像 春田行夫HP)
写真家、中種子町出身
*写真集「種子島海道」「セッカの子育て日記」自費出版、
1939.S14種子島、中種子町納官に生まれる。
1957鹿児島県立中種子高等学校卒。1963.関西学院大学文学部卒業。
2000.大阪商業大学高等学校教員(2000年定年退職。1980北海道釧路でタンチョウの撮影を始める。
1987.藤井寺市にて個展開催「丹頂鶴」。
1993.コダック展に佳作人選。JPS展「北海のオオワシ」入選、以後数回入選。1997.JPS展銀賞受賞2001主羽曳野市で個展開催。南河内の自然・「石川の野鳥たち」。
SSP/日本白然科学写真協会員)展「イソシギ」出品。2002.SSP,25周年記念写真集に参加。
*主な写真活動・南河内の自然」野鳥と風景を継続して撮影。大型の野鳥、タンチョウ、ハクチョー、オオワシ、オジロワシなどを撮影。現在はセッカ、オオヨシキリの繁殖生態を撮影中。
また、国内外の世界遺産を撮影し、HPで公開。その他、書籍、機関紙等々に写真を提供。日本自然科学写真協会会員。日本写真芸術学会会員。全日本年金者組合羽曳野支部写真


向井優
 (むかいまさる) 

アマチュア天文家 
昭和24年生 出身地・鹿児島市吉野町
*宇宙に「種子島』と言う星があるなんて何とすばらしくロマンティックなことだろう! 平成14年2月2日小惑星「種子島」命名(火星と木星の16等星 周期5.51年)。
*現在までに11個の小惑星を発見し、弟さんの名前の星もあるそうです。
・宇宙や星に興味のある方の(真面目な質問)
問合せはハガキ、封書で〒892-0871 鹿児島市吉野町3095-94 向井優 宛て。


河口洋一郎

(画像 HP)
出身・種子島西之表市 昭和27年生
1976年九州芸術工科大学画像設計学科卒業、1978年東京教育大学大学院修了。筑波大学助教授を経て、現在、東京大学人工物工学センター教授。
1975年からCG(コンピュータグラフィックス)に着手し、世界的CGアーティストとして活躍中。

























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種子島の文芸人   
◆日高安典・日高保・嶋元啓三郎・種子島時休・上野シゲ・宮城喜代子・春田行夫・中島豊
日高安典戦没画学生
戦没画学生とは美術学校在籍中に戦争に召集され戦死した美術学生をいう。

※無言館最後の一枚 日高安典さんの動画


*日高安典 大正7年1月24日生 出身地・鹿児島県熊毛郡南種子町中之上
南種子旧制中学校首席で卒業 ・昭和12年4月東京美術学校(現芸大)入学
・昭和16年12月戦争の為繰上げ卒業
*昭和17年3月満州出征・昭和20年4月19日・ルソン島バギオにて戦死(27歳)
・「裸婦」「ホロンバイル風景」など遺作、遺品40点余は「無言館」入り口すぐの場所に展示してあります。
*「裸婦」は卒業直前の写真で、モデルの女性に「生きて帰ったら、必ずこの絵の続きを描くから・・」と告げて出征して行った。
・昭和18年8月26日の日記より
  詩・「秋立つ鳥の飛ぶ方を見よ
     秋立ちていつ帰りこん迷い鳥
     秋立ちていつ帰りこんツンドラの苔」
・戦死直前の手紙には「小生は生きて帰らねばなりません。絵を描くために」とあり。。
・故郷の出征の行列に参加の日も「あと5分、10分、この絵を描きつづけていたい・・」 と筆をおろさなかったそうです。
・実家にご健在の日高稔典(弟)さんは遺作の絵を戦禍の中、豊島区長崎町のアトリエ村まで苦労して行き持ち帰った。
無言館館主、窪島さんにその絵をお渡しする際に「私ら家族にしてみたら、これでようやく兄の本当の葬儀が出来た気持です」と感謝の涙で見送りました。
「無言館」
*「無言館」住所 長野県上田市古安曾字山王山3462 (JR信越線上田駅より車20分)電話0268-37-1560 年中無休で開館、入場料400円前後。
*戦争による夭折画学生、夭折画家70余名の遺族、保管していた方の善意により無償貸与した遺作、遺品350余点を展示してある「戦没画学生慰霊美術館」
*毎年6月5日は「無言忌」開催してます。
館主は、信濃デッサン館、ニューヨーク野田英夫記念美術館の館主でもあり作家の窪島誠一郎氏(水上勉のご子息)。著作に水上勉氏との出会いを綴った「父への手紙」「無言館画集 戦没画学生祈りの絵」「無言館への旅」「無言館ノオト」など多数。


「波」宮園豊則先生顕彰碑物語り

  安城小学校の宮園豊範先生顕彰碑物語


安城小学校教諭「宮園豊則先生」は、西之表市の安城小学校の教師をしていた。
豊則先生は,昭和23年8月14日,わずか27歳の若さで亡くなりました。自分の命を投げ出し,教え子を救ったのです。
夏休みの暑い日差しの中,子どもたちにせがまれた豊則先生は,みんなで安城海岸へ泳ぎに行きました。ところが,泳いでいるうちに教え子3人が波にさらわれ,沖へ流されていきます。
豊則先生は,おぼれかかった2人を両腕に抱え,海岸まで泳ぎ着き,もう1人を助けに海へ戻りました。死力を尽くして残りの1人を助け出しましたが,力尽き果てた豊則先生はそのまま波にさらわれ帰らぬ人となってしまいました。
豊則先生の悲しき殉職は波紋を広げ,翌年,鹿児島県教職員組合が中心となり「宮園豊則先生顕彰碑」を安城小の校庭の一角に建立しました。
碑文には,「宮園先生は教え子三人の生命を逆まく怒濤より守り・・・(中略)・・・この碑ある限り,宮園先生の生涯をわれわれの生涯として,正しく強く進もう」と書かれています。また,それとあわせて昭和25年頃、紙芝居「波」も作製され当時の鹿児島県のすべての小学校に配布されたそうです。
 (資料提供・宮園聖 HP宮園さとしのLet's have fun!)


中島 豊(吟詠・中島菖豊)



中種子町二十番出身・昭和16年生吟詠道9段・関西吟詠協会上師範 全国大会優勝すること実に9回。
経歴・中種子高校卒業後大阪に出てアルバイトしながら夜学通い卒業。
・NTT定年退職後32歳ころより趣味で始めた詩吟を本格的に習得。
・近所の子供らに集会所などで教えるかたわら吟詠の普及口演、チャリティー、ジョイントコンサートなど積極的に活動中。・HPちろりの仲間


日高蔀(ひだかしとみ)洋画家 
1931S6中種子町生まれ 渡仏し3000点余りの洋画を残す。
 日高蔀しとみの動画

日高保最後特の特攻攻兵士
  
 
*最後の特攻兵士日高保(たもつ)  南種子町西之出身19歳
終戦日(直後)、昭和20年8月15日午後5時30分 宇垣中将以下11機23名で沖縄に向かって特攻出撃した宇垣特攻隊・・終戦になったのに何故出撃したかの謎は不明だが「出撃した事実」は残る。
大分海軍航空基地より宇垣特攻隊(中将以下23名)の日高保一飛曹偵察員と川野和一一飛曹はD64号機で沖縄に飛び立った。
沖縄上空に着いたのは午後7時30分を過ぎており月明かりの黒い海には敵艦も何も見えない。帰路の燃料の心配のため装着していた800キロの爆弾を洋上投機し帰路。
大分基地までもう少しだったが不運にも燃料切れにより鹿児島湾に不時着した。その時の衝撃で日高保は即死した。
日高保は酒が好きでいつも南の島の太陽のように朗らかで同僚からも頼りにされ好かれた性格だったという。川野和一さんは救助され戦争のみにくさ現実を後世に伝えています。
日高保の母は「タモツは誰も殺さんで自分だけ死んだ、宇垣長官よりもエラか男じゃと思うております」と申したという。悲しみの伝承だけが人に真実の言葉を与える。なぜかそう思った。 <日高恒太朗著「不時着」より>

★戦場カメラマン嶋元啓三郎報道カメラマン

 
 
  
*報道戦場カメラマン嶋元啓三郎 
南種子町島間出身 昭和12年1月5日生--昭和46年2月10日取材中戦死。
*父は嶋元勤(元京城日報編集局長)、母は西之表市安城上妻氏、兄謙郎は元読売新聞編集委員。
*早稲大学文学部でロシア文学を学びチエーホフを愛読したという、
卒業後は作家梶山李之の<東京ペン>に身をおき、文筆の道を歩んでいたが、60年安保闘争で死んだ樺美智子事件で初めてカメラを握った彼は、映像の迫力を知り、カメラマンに転身した。以後フリーカメラマンとして内外で活躍する。
当時はベトナム戦争(1960S35年から15年問続いた)の最中であった。アメリカ軍の介入に祇抗して、ベトナム解放軍が悪戦苦闘し、往民が見境なく殺傷されていた時代である。
彼は通信社の特派員として1965S40年を皮切りに再三べトナム人りをして、2年間取材を続けたが、1967S42年の8月、ヘリコプターの墜落で負傷し、東京に帰り入院した。しかし、不屈の嶋元は傷が癒えると再び1968S43年の1月から約1年問、今度はフリーの立場でベトナムに行っている。
1969S44年の12月から12力月間は石原ブロの「栄光の五〇〇〇キロ」のスチール担当としてアフリカに行ったが「やはり束南アジアに魅力を感じてるよ」と語っていたという。
彼はラオス侵攻作戦取材のため、1971S46年2月10日、米車のヘリコプターで移動中パテト・ラオ軍の対空砲火を受けて墜落し、同乗の「ライフ」のラリー.バローズ、AP迦信のアンリ・ユェ、UPIのケント・ポッターとともに消息を絶った。時に34歳。遺体、遺品は発見されず。
*父は早く死亡したので、10歳年上の長兄謙郎(時に読売新聞東京朴会部デスク)は親代わりのような存在だったが、啓三郎戦死の電報を同僚から受け取った。
1971S46年謙郎が駆けつけたときは近づくことも許されなかった撃墜現場を、1998H10年に訪れたれたときは、被害者に米国人もいたためか米国防総省のMIA(戦闘中行方不明者)捜索チームの調査により、山の中腹のジャングルでやっと墜落地点を見つけることができたという。
ようやく兄謙郎の手により「ラオスの土」を魂として持ち帰り、故郷島問先祖の地に納められた。
啓三郎の墜死は、元日劇ダンサーと結婚した直後だったという、痛ましいことであった。<石川文洋著「戦場カメラマン」より>


宮城喜代子(旧姓・牧瀬清子)-筝曲演奏人間国宝。


 
*宮城喜代子(旧姓・牧瀬清子)・筝曲演奏人間国宝。(画像HP)
・明治38年3月2日生--平成3年没
*中種子町増田出身の父、牧瀬興吉、母、スミの長女として誕生。
母スミの妹が宮城道雄と結婚したのが縁で、大正9年15歳のときから道雄から琴の手ほどきを受けた。
道雄の演奏旅行に同行しながら修行を積んだ。
道雄は昭和31年6月関西演奏旅行の際、愛知県刈谷市付近で夜行列車から誤って転落死亡した。
道雄の意思により喜代子と妹の数江は宮城家の幼女となり筝生田流、宮城宗家、宮城会を継ぎ活躍した。昭和58年「筝曲宮城喜代子全集」発表。
 <宮城喜代子著「筝ひとすじに」より>
上野シゲ

産業能率大学開設に尽力する。(上野シゲさんに関する画像資料など教えてください)
西之表市納曽出身  明治28年5月22日生--昭和57年6月3日没 
・幼時より才気活発、茶目っ気タップリの人であった。
*大正5年私立女子英学塾(現津田塾)卒業
・下関、梅光女学院英語教諭
・大正13年1月上野陽一氏と結婚・昭和25年産業能率大学開設に尽力
・昭和34年4月同大学理事就任・ご子息の上野一郎氏は同大学第5代学長。
・短歌集「花あかり」出版、その中の、原人の好きな一首

 「丘山の社人(しゃにん)の花のあはれをば知りそめし頃 島を出でにき」(しゃにん=月桃)



       
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