大的始式
(おおまとはじめしき)

西之表市栖林神社 鹿児島県指定文化財。 京の宮中行事、弓の儀式が(京都では廃れた)種子島で行われていること、鉄砲伝来以前から508年も続けられていることは特質すべき島の宝です。
種子島家第12代種子島忠時は千里の道を遠しとせず京に上洛すること数度、上方の文化摂取に努め弓道、蹴鞠、茶道などの文化を島に伝えた。
1500年室町時代明応9年忠時は弓の指南役として武田筑後守光長を招き、翌文亀元年宮中の「御的始式」を島で行ったのが起源。
6人の射手が6射合計36本の矢を射る。35本まで矢が的中するとき「満つれば欠くる」の戒めにより最後の1本は故意に外される。
島人の悪魔災難、平安、無病息災を祈願することから最も寒い1月11日に行う。
戦国合戦で弓矢に代わり活躍した鉄砲は廃れたのに、その弓の儀式が種子島で連綿と行われていることに歴史のおもしろさがある。

笹川小四郎
「日本で最初に火薬の調合」に成功したのも種子島人である。名をば笹川小四郎と言う。
彼の努力で火薬は爆発し鉄砲となり得たのである。銃身の鉄砲の陰に隠れてしまっているのは残念なことです。
彼に関する伝記書物は残っていないが彼の血、「笹川」と言う姓名は現代にも脈々と受け継がれています。

門倉岬(南種子町)

種子島の最南端に断崖状に突き出した岬。
天文12年(1543)、この岬に1隻の明の船が漂着。この船に乗っていたポルトガル人が鉄砲を所持していたことから、日本に鉄砲が伝わることになる。岬周辺は公園として整備され、鉄砲伝来記功碑と種子島最南端の地の碑に加え、南蛮船を模した造りの展望台も設けられている。
なお、岬に至る直線道路の愛称は「海中ロード」。まるで海に向かって直進していくかのような気分になることからの命名といわれる。


赤米館
 (南種子町)

宝満神社の向かい側にある資料館。古くから神社に伝えられている赤米と赤米をめぐる文化をテーマに、実物の標本や模型、映像などで展示・紹介している。
なお、米の原種とされる「古代米」の赤米は、神社の信仰などにより、現在もいくつかの地域で栽培されている。南種子町のほか、岡山の総社市と長崎の対馬が知られるほか、最近は「町おこし」の一つとして栽培する例も見られるようになりました。


宝満の池
(南種子町) 
南種子町の中心より東南に約6Km のところに位置し池の周囲は1230m、水深6m、面積49.308uと種子島では最大の淡水池である。

豊満神社のうっそ うとした森に囲まれ、池の辺りに立つと、波ひとつたたない池の面は周囲の 山陰を鮮やかに映して見せる。池には コイ、フナなどが生息し熱帯植物のハ ス、ヒシが自生している。
特に7月〜 8月にかけて池一面にハスが白い花 を咲かせる様は神秘的で美しい。
また、冬には数百羽のマガモが渡来 し、年間を通じて数十種類の野鳥を見 る事が出来、バードウオッチオングに最適の場所である。
なお、土地の言い伝えでは、この池は、第10代島主・種子島幡時の伝説が残る中種子町の馬立の岩屋とつながっているといわれる伝説あり。


赤米の栽培

種子島では日本の米の起源とされる古代米「赤米」が現在でも栽培されている。弥生時代から栽培されていたらしい。東南アジア、古代中国からの漂流民が伝えたものであろう。
南種子町茎永集落、宝満神社の神、玉依姫がもたらしたと言う伝説がある(さすがだね〜種子島は)。同神社の赤米は、東南アジアに多いジャバニカという種類で、米粒が小さく、茎は1.6メートル前後と高長い(この茎が長いことが茎永と言う地名の語源となっている)。

お田植え祭りは、稲作の神が宿るとされる「御田(おた)の森」で、苗に森の力を授かる神事である。女人禁制の神田で田植え。茎南小児童をはじめ、そろいの白い法被を着た男性16人が丁寧に苗を植える。あぜでは雨田健二郎さん(44)が独特の節回しで田植え歌を披露し最後はお田植え舞の奉納。舟の形をした舟田で、正装した池亀幸宣さん(66)、チエ子さん(61)夫妻が両手に苗を持ち、ゆったりとした動作で舞う。集まった住民らには赤米のおにぎりと煮染めが振る舞われた。
 赤米の刈入れは神事の後、集落総代の十数人が「お田」と呼ばれる神田に入ってカマで手刈り。「お田」は、女人禁制で、田植えから刈り入れまで男衆が手がける。
足踏み脱穀機で昔ながらに脱穀、収穫。赤米は門外不出とされ、来年のお田植え祭などでおにぎりにして参加者らに振る舞われる。
現在の種子島は「超、超早場米」こしひかりの産地でもある(7月10日前後収穫)これがまた超ウマイ!

宝満の池
   菅笠伝説
種子島家10第当主種子島幡時は天犬の法、天狗のように空を飛ぶ術の修行中、行方不明になった。その愛馬は岩屋で主の帰りをいつまでも待っていたという。
幡時の菅笠は遥か南の宝満の池に浮かんでいたと言う伝説から馬立の岩屋と宝満の池は地下の水脈でつながっているとばかり思っていたが、その謎が解けた。
昔むかしは、宝満の池は、池ではなく海とつながった干潟だったという。あるときの大風(台風)の大雨で山が崩れ干潟を堰き止めた。
堰き止められた場所が宝満の池となった。池の中心部には神社の杜、四方の山の水の湧水がコンコンと湧き出ている。
菅笠伝説は、まだ海とつながっていたときのことで、海上を漂い宝満神社の脇の干潟にたどり着いたということから馬立の岩屋と宝満の池はつながっているという伝説ができたのだろう。と理解できた。

動画→「馬立の岩屋」

動画→「宝満の池」

※宝満神社の
 大岩鮮血伝説
宝満神社は「赤米栽培発祥の地」として現在も栽培されいてるが、その昔、赤米栽培の田んぼ(舟田)が日照りが続き干ばつになった。
宝満の池の水を、宝満神社の山を削り溝を掘り舟田に流そうと工事をした。
ちょうど、宝満神社の下を掘ろうとしたら大岩があり割って取り除こうとしたら、その大岩の割目から真っ赤な鮮血が流れてきたという。
そこで、工事を中止。ほどなくして大雨が降り赤米の田植えができたと言う。
宝満の池や杜は祭りの日以外は立ち入り禁止。

★宝満の池の
 カモ刺し網漁
日本では他に1.2箇所しかない古来からのカモ猟。国指定の文化財になっているかは?。
カモが行き返りに山肌を飛ぶ習性を利用する。
宝満神社の中腹の木の上に足場を組み三角の枝に網を張ったものを、空を飛ぶ下から真上に投げる刺し網漁。
県の狩猟許可を得て年に数回漁をする。(画像maimaiさん提供)
北極イヌイットの人たちが同じような鳥の捕獲をしているがトンボ網のような形だった。
(茎永・大脇壽徳さん情報提供・宝満神社の神主のバキーは同級生です

栖林神社
 (せいりんじんじゃ
日本最初の甘藷、さつまいもの導入、栽培に成功した第19代島主の種子島久基を祭った神社。
神社の名は晩年の号「栖林」から。毎年1月には、一年の平安を祈念し、直径150cmの大きな的を弓で射る「大的始式」の行事を挙行。境内には種子島家歴代の墓地もある。

世界一小さい蛇
  メクラヘビ

全身鱗で覆われ眼は退化している(ミミズと間違えそう??)
平成13年生存確認(種子島薬草栽培試験場にて) 香月茂樹氏写真提供、

日本で最初の
 離島定期旅客便  (沖縄除外)

現在では飛行機は日本全国くまなく就航してしていますが、離島では種子島が定期航路日本で最初。(昭和32年)
*国産初のYS11が就航した。H18年3月より新種子島空港開港。


























 



みどりむしバイオザイム



種子島は1番       安納芋格安→
種子島は1番のページは、鉄砲伝来、鉄砲記、古代米赤米、さつま芋、メクラへび、国内最古の落とし穴遺跡の話と続きます。


種子島が日本の歴史に登場した日
 鉄砲記」現代語訳ナレーション(これが真実の鉄砲伝来 南浦文之著・鐵炮記)動画


  「鉄砲ポルトガル人上陸の碑」動画


*日本の歴史の中で「種子島」が文字で確認できる最古の書物は「日本書紀」です。

*天武6年(677年)天武天皇631-686「二月、
多禰島の人らに飛鳥寺の西の槻の木の下で饗応された」
現代語訳・・この月に種子島の人が飛鳥寺にやってきたので、天皇自ら宴会を主催して彼らをもてなした)
*それから2年後天武天皇8年11月に正副2人の高官を種子島に派遣した。
重要なのは新羅や高麗の国に派遣するのと同じように正副二人の高官(現代で言えば外務大臣と外務副大臣)を派遣していることである。理由は種子島には意外にも多くの米が獲れたからであろう。

注・「槻(つき)の木」とは欅(けやき)の古称、専門家には異種とする意見もある。 「饗応」は服従関係の成立や確認。多禰島(たねのしま)の禰は示へんに爾の表記)

*天武10年(681年)「八月二十日、多禰島に遣わした使人(正副2人の高官が大和に帰る)らが、多禰島の地図を奉った。
その国は京を去ること五千余里筑紫の南の海中にある。住民は髪を短く切って草の裳をつけている。稲は常に豊かに実り、年に一度植えれば二度収獲できる。土地の産物は支子・莞子および種々の海産物が多い」

*同年9月に天武天皇自ら主人になって、飛鳥寺のそばの川のほとりで同行してきた種子島人の為に宴会をひらいた。

注・ひとたび植えて再び収む⇒一度切った切り株から新たに芽(ひこばえ)が出てきて短期間で稲穂になり米が収穫できること。種子島ではこの二度目の米のことを「ヒツツ」と呼んでいる。
注・ヒツツとは櫃(ひつ。石、板などで造った箱の形をした容器)の変化したもの。
奈良時代中期大隈の国の一部になるまで種子島は多禰国(たね国)という国であった。  
支子はクチナシ、莞子(かま)はイグサのこと。移動を考慮すると使者の滞在は約1年。
 (解説・南種子町出身 古市和義)
*昭和30年代まではヒツツは収穫し、販売用ではなく自家用食として食べていたが、耕運機、トラクターが導入された平成13年の今ではこの光景も見られなくなりました。

鉄砲伝来は偶然ではない。
尭種子島時尭と鉄砲伝来動画



種子島鉄砲隊動画→→


*鉄砲伝来書物は薩摩藩島津家に仕える大竜寺の僧、南浦文之(なんぽぶんし)著「鉄砲記」は有名です。
(最下段に現代語訳鉄砲記あり)


*種子島での書物は、江戸時代に「種子島家譜」の編集にも関わった上妻隆直の「懐中島記」があります。
その中の「鉄砲始之事」に・・「天文12年8月南蛮人、鉄砲2箇持ち帰る。翌年亦同国の船来る。然も鉄匠有
り。製する道を習ひて数十の鉄砲期手に製し、世に流布す」とある。

「鉄砲伝来の種子島」は中学の社会の勉強をした人なら誰でも知っている。
重要なことはこの時代「南方貿易、遣隋使、遣唐使貿易の中継港」として栄えていたこととと、鉄砲を複製(造
った)した「鉄の技術」が既に種子島にはあったということです。

弥生時代から「鉄を作る技術」があったことは遺跡発掘品(釣りバリ)から証明されています。
 
                         黒い部分は、蹉跌の層


種子島家について
 
*1201年鎌倉時代はじめ(建仁元年)鎌倉幕府北条氏から南海12島を治めるように言われた肥後守時信→改
名し初代種子島信基〜4代真時までは鎌倉にいた。

統治していたのは派遣代官(守護代、地頭代)で松下、田中、三浦、徳永氏などと同行した家来100余人であ
る。

島主が種子島に下向し居を置き直轄したのは第5代種子島時基以後である。第4代以降名前に「時」という字
を多く使う。

◆鉄砲伝来でよく間違われること
誤・ポルトガル船→正・ジャンク、南蛮船 / 誤・ポルトガル銃→正・マラッカ銃 / 誤・若狭姫→正・わかさ、
若狭

鉄砲伝来伝説
  


*1543年(天文12年8月25日)室町時代末期
種子島の南端近く西之前之浜に漂来した中国船=南蛮船=ジャンク(ポルトガル船は間違い)に貿易の為に
乗っていた明人、琉球人100余人、ポルトガル人3人(アントニオ・ダ・モッタ、フランシスコ・ゼイモト、アントニ
オ・ペイショット)の持っていた火縄銃(ポルトガル製ではなく東南アジア製)を、島の城主、種子島時堯(とき
たか)16歳が2丁、2千両(現在の2億円)で購入し、鍛冶屋の八板金兵衛が複製したという。

注・(2千両で買ったという金額は鉄砲記にはありません。後世の誰かが言ったのが定説化しています)) 
注・ポルトガル人3名(鉄砲記では2名)
注・漂来とは現在の漂流や漂着ではありません。漂とは風に漂う、来は来る到着の意味。つまりその頃の船
「帆船」が着いたということです。


西之の小浦、長瀬浦の波打ち際にあったが、現在は台風などで侵食流されないために20メートルほどのがけ
の上に移動してある。昭和9年12月に南種子村、西之区民青年団により建てられた。

鉄砲伝来は種子島 と言う記事なら問題ないが、「門倉岬に漂着」と言う記事をみる
と????です。
門倉岬にある「鉄砲伝来紀功碑」は種子島に鉄砲が伝わったという記念石碑であり門倉岬に漂来したという
ことではありません。


※「鉄砲記」には、西村の小浦に一大船有りとある。
鉄砲伝来数え唄の2番に「西之の小浦の海岸に参りたわいな」とある。
また、西村織部之丞と五峯が砂の上に小枝で字を書いて筆談したとある ことを考慮すると西之前之浜と門
倉岬の中間の砂浜(長瀬浦)に南蛮船が漂来した。


門倉岬南端の岩礁に漂来したのなら波の力で船はチンガラだったはずだ。
 注・西村の小浦に一大船有りですから、現在の漂着ではないと判断できます。
 漂来=漂着や漂流ではありません。この当時漂着や漂流と言う言葉はなかった。
  室町時代には風で漂う帆船が到着することを「漂来」と呼んでいた。
 チンガラ=物がガラガラと崩れるさま。
ちなみにダ・モッタの末裔は元外交官、現在美術作家のジョアン・モタ氏である。
しかし城主は種子島銃で大儲けすることは無かった。儲かったのは種子島に商いに来ていた紀州根来衆と
堺の商人だった。

※捻子(ネジ)の語源は鉄砲を複製した種子島の鍛冶達が捻り(ねじり)と言ったことからネジとなった。
 

 
  (種子島に伝わったという初伝銃複製)    (種子島時尭の墓、右から3番目)
ポルトガル人は3度種子島に来た!?

    1回目の来島・1542年(天文11年)室町時代末期 
ポルガル国史の中にポルトガル人、アントニオ、ガルバン著「諸国新旧発見記」がある。それによると1542年3
人のポルトガル人が中国船(ジャンク)に乗って東シナ海の港リャンホーに向かって出向したが台風で遭遇し種
子島、南種子町前之浜に漂着した。これにより日本と言う国が進んでおらず貿易上非常に有利な国であること
が解かった。

これは「ポルトガル人の意志に関係ない」1回目の日本上陸である。が、このときには鉄砲は伝わっていない。
注・この時代、ローマ教皇アリキサンドル6世教書に「初めて発見した土地は自分達のものにしてよい」とあるか
ら発見した国は「国史」に記録しなければならない。ですから信じるに足りる記録なのです。


2回目の来島・1543年(天文12年)8月25日
貿易(交易、略奪、キリスト教布教)に有利だと解かれば再度行くのは当然のことである。西之表市の赤尾木
港に2人のポルトガル人の道案内をしたのが五峰(後の中国人倭寇の首領、王直)と言う人物である。これは
「自分たちの意志」での日本(種子島)上陸、2回目である。(鉄砲記には台風で漂着したとの記述は全く無い)

2回目の目的は、貿易つまり「鉄砲の売込」をする為である。売込むためにまず種子島家16代当主、種子島時
尭(顔は原人と同じくヨカニサーだったとか?)にポルトガル製ではなくマラッカ製の鉄砲2丁又は3丁を売った
のである。
この時初めて「鉄砲伝来」となったわけである。
これにより鉄砲は日本全土に広がり皆が鉄砲と火薬を欲しがるから大儲け出来る商売、貿易だと、五峰とポル
トガル人は考えたのである。

*しかし今も昔も真似することは得意中の得意の日本人、島の刀鍛冶の技を利用し、矢板金兵衛清定は何と
僅か4ヵ月後には鉄砲の複製を作ったという。  


3回目の来島・1544年(天文13年)3月 
しかし鉄砲の複製は完全ではなかった。銃身に火薬を入れた後の蓋をする方法が解からない。当時日本には
ネジ式で蓋をする技術、雄ネジ雌ネジが無かったのである。

*そんな折り今度はポルトガル人を船長にした船が中種子町の熊野浦に来航した。運良く鉄砲鍛冶が乗船して
いたので教えを乞い完全に出来上がった。それから僅か5ヵ月半後には600挺以上の鉄砲を造ったと言う。

*(ネジの作り方を教えて貰う代わりに金兵衛の若狭という名の娘をポルトガル人に嫁にやったと言う若狭伝説
がある、下段に記載)。
矢板金兵衛の作った鉄砲の性能は、この時代、世界でも一級品だったことが現在でも評価されている。
が・・しかし・・鉄砲本体は出来てもただの鉄棒と同じだったのである。実戦では使えない。何故って?玉を発
射させるには火薬を爆発させなければならない。爆発させるには硝石(硝酸カリウム)が必要であるが、残念な
がら日本には産出しない。鉄砲と言う銃身、鉄棒を持っていても何の役にも立たない。


*従って種子島時尭は欲しい人にはタダでやると言うことになる。その頃種子島に交易で来ていた紀州根来の
津田監物、堺の商人橘屋又三郎に鉄砲製作の技術全てを気前良く教えたのである(ああーもったいなかあ
ー)。種子島時堯は、鉄砲を独占しようにも出来なかった訳である。

これより30年後に鉄砲は日本全土に広がり戦国武将達の合戦の主役となり、日本の歴史を変えることとなる
のであ〜る。

*種子島は鉄砲の権利独占は出来なかったが、鉄砲の製造は盛んに行われ50軒の「鉄砲鍛冶屋」があったと
いう記録がある。1590年(天分18年)太閤秀吉の命により200挺の鉄砲を数ヶ月で完成させたと言う。

*この鉄砲製造技術は、種子ばさみ、鍬、などの生活用具に活かされてきたが、現在では後継者不足で鍛冶
屋さんも2軒だけとなっている。

*ネジという言葉は、底を塞ぐ術をいろいろ考えて念じたことからネジという言葉が生まれたと言う。ちなみに、
物事の始まりの時に「
火蓋を切る」と言うことわざは、鉄砲の銃身内の火薬を爆発させる為には、釘の穴ほど
の火薬の道案内(導火線の役目)が必要である。水などで濡れては火はつかないから普段はスライド式の
「蓋」をしておく。この蓋を開けることを「火蓋を切る」と言う。

(参考資料・井沢元彦著「逆説の日本史、第9巻」・井塚正義、飯田賢一著「鉄砲伝来前後」)  
鉄砲伝来・わかさ伝説
 鉄砲伝来と若狭伝説動画


                (矢板家に伝わる若狭の系図   わかさの墓はソテツの根元の小さい石)
日本で最初の白人との「国際結婚」は種子島の女性「わかさ(若狭)」伝説ですが。
鉄砲の複製造りに際してどうしてもその当時の技術では出来ないものが一つありました。それは銃身の雌ネジ
の造り方でした。鉄砲造りを依頼された八板金兵衛はその技術を教えて貰う代わりに自分の娘、わかさをポル
トガル人に嫁がせた。恋愛だったのかもという説は考えられない。私見だが、技術を教えてもらうための見返り
だったと判断するのが妥当なところでは・・。

いずれにしても白人との国際結婚の第1号である。
その伝統は現在でも続き「外国人」と結婚する人は多い(それだけヨカニサー、ヨカ嫁ジョーが多いということかな?妙に納得?)

*本能寺ご用達の刀鍛冶、矢板金兵衛清定
鉄砲伝来の6年前1537年、室町時代末期(天文6年)8月15日、濃州、関、現在の岐阜県関ケ原から法華宗弾
圧の難から逃れる為に刀鍛冶の腕を活かせる種子島に妻のカメ女、娘のわかさ、弟の清賀(きよよし)の4人で
来島した。

わかさは和歌も詠む才女で、遠く異国で種子島の父母を懐かしみ「月も日も大和のかたぞ懐かしき わがふた親のありと想へば」が伝えられている。
「わかさ」は後世「若狭」とも呼ばれるのは、わかさという名前の由来にあります。わかさの母の祖父は若狭国(福井県)の刀鍛冶であった。風光明媚な若狭湾の美しさからその名前を付けたと言う。
*ところで、嫁いだ後のわかさはどうなったのだろうか?
シュム国(タイ)の商館で働いていたとも・・。また、その後一度種子島に里帰りした際に、父の金兵衛は、「わ
かさは急病で亡くなった」と偽りの葬儀をし以後結婚することなく島で静かに暮らしたとも・・。

*海音寺潮五郎氏は鉄砲伝来にまつわる哀しい若狭伝説を心にとめて「あハレここ若狭の墓か白砂の もろく
崩るる海のべの丘」と詠った。その歌碑が若狭の墓が見える西之表市雲之城の丘の上にたっている。

後年、わかさ姫と呼ぶ人もいるがこれは厳密に言えば間違いです。わかさは「姫」ではありませんから。「姫」と言う呼び名はその悲しい運命をいたんで後世の人が哀れいとおしみ、賛辞の意味で呼んでいるものです。
 (種子島出身、徳永健生著「たまゆらの海」より)
 ★古代米 赤米の栽培  南種子町茎永
 古代米赤米、宝満神社のお田植え祭り動画


種子島では日本の米の起源とされる古代米「赤米」が現在でも栽培されている。弥生時代から栽培されていた
らしい。東南アジア、古代中国からの漂流民が伝えたものであろう。

南種子町茎永集落、宝満神社の神、玉依姫がもたらしたと言う伝説がある(さすがだね〜種子島は)。同神社
の赤米は、東南アジアに多いジャバニカという種類で、米粒が小さく、茎は1.6メートル前後と高長い(この茎
が長いことが茎永と言う地名の語源となっている)。

お田植え祭りは、稲作の神が宿るとされる「御田(おた)の森」で、苗に森の力を授かる神事である。女人禁制
の神田で田植え。茎南小児童をはじめ、そろいの白い法被を着た男性16人が丁寧に苗を植える。あぜでは雨
田健二郎さん(44)が独特の節回しで田植え歌を披露し、最後はお田植え舞の奉納。舟の形をした舟田で、正
装した池亀幸宣さん(66)、チエ子さん(61)夫妻が両手に苗を持ち、ゆったりとした動作で舞う。集まった住民
らには赤米のおにぎりと煮染めが振る舞われ。

 古代米 宝満神社赤米の刈入れ動画


赤米の刈入れは神事の後、集落総代の十数人が「お田」と呼ばれる神田に入ってカマで手刈り。「お田」は、
女人禁制で、田植えから刈り入れまで男衆が手がける。

足踏み脱穀機で昔ながらに脱穀、収穫。赤米は門外不出とされ、来年のお田植え祭などでおにぎりにして参
加者らに振る舞われる。

現在の種子島は「超、超早場米」こしひかりの産地でもある(7月10日前後収穫)これがまた超ウマイ!
種子島・国内最古3万年前の落とし穴 大津保畑遺跡

3万年前の土坑12基発見/中種子町坂井本村2007.1.27 南日本新聞より転載 
*中種子町坂井の大津保畑(おおつぼばた)遺跡で、約3万年前(後期旧石器時代初め)の土坑12基が見つ
かった。

同遺跡を視察した岡山大学大学院の稲田孝司教授(考古学)は「形からみて、獲物を捕る落とし穴の可能性
が極めて高い。

これまでの例を約3000年さかのぼる国内最古の非常に大事な資料」という。 
地下約2メートルの約3万年前に降ったとされる種IV(たねよん)火山灰層の下から出たことで年代を特定した。
これまで国内最古の落とし穴は静岡県沼津市周辺で見つかった約2万7000年前の遺構で、県内では仁田尾
遺跡(鹿児島市石谷町)など約1万2000年前のものだった。

*大津保畑遺跡は改修予定の国道58号(中種子道路)東側にあり、立切、小園両遺跡に隣接している。同町
が2002、03年に調査し土坑5基を発掘。同センターは06年10月から約6600平方メートルを調査していた。

*発見された土坑は東向き斜面の谷に向かって約40メートルにわたり点在しており、直径150センチ前後。6基
を掘り、1基(2号土坑)を実測したところ深さ約120センチだった。穴は上部から約30センチまではラッパ形に開
いており、下部はほぼ円筒形。大津保畑遺跡と同時代の立切遺跡でも炉跡などが見つかっており、「関連が
あるのは間違いない。当時の生活を考える上で重要な手がかり」としている。

同センターは(1)ごみ捨て場など生活の場所から出る道具が出土していない
(2)同じ形態の土坑12基が集中している−などから狩りの場であった可能性が高いとみる。さらに断面を削る
などして構造を分析する。 

岡山大学大学院の稲田孝司教授(考古学)は、沼津の例よりやや小ぶりであること、立地や並び方が違うこと
から、「目的とする狩猟動物が違ったのではないか」とみる。「沼津と種子島の両遺跡が文化的に直接つなが
るのかどうかが今後の課題」としている。 同時期に発掘した小園遺跡では、石蒸しの調理跡とみられる約2万
7000年前のれき群も発見された。


種子島・3万年前の落とし穴(中種子・大津保畑遺跡)
 約3万年前(後期旧石器時代初め)の、国内最古とみられる落とし穴などが見つかった中種子町の大津保畑
遺跡で20日、現地説明会が開かれた。

島内外から訪れた約400人の見学者らは係員の説明に熱心に聞き入っていた。 会には県埋蔵文化財センタ
ーの宮原景信所長も出席、「最先端のロケット基地を持つ種子島は旧石器時代も最先端を走っていたといえ
る。

昔の暮らしに思いをはせる一日にして」とあいさつした。 参加者らは3班に分かれ、落とし穴や石蒸し調理
跡、出土品などを交代で見学した。

見学者からは「どんな動物を捕っていたのか」「当時の人たちは定住していたのか」など質問が相次ぎ、関心
の高さをうかがわせた。

また、石蒸しの礫(れき)群では、実際に石を焼いてサツマイモを焼く調理法も実演された。 同町の岩岡小学
校5年の菊浦真一君(10)は「遺跡の見学は初めて。

昔の人が深い落とし穴を作っていたと知ってびっくりした」と興味深そう。同町野間の寺田寅三郎さん(74)も
「種子島で生まれ育ったが、地元にこんなに古くすばらしい歴史があるとは知らなかった。古代のロマンを感じ
ますね」と驚いていた。


日本一の大ソテツ 中種子町坂井
    ※日本一の大ソテツ動画


種子島空港から国道58号を7km余り南下した左手、坂井(豊受)神社の境内にそびえ立っている巨木。中種子
町のシンボルの一つで、推定樹齢は700年以上。

高さ約10m、根回りは2mほどあり、ソテツとしては日本一の大きさとされる。幹から何本もの枝が分かれて湾
曲した姿は迫力満点。枝の重さで木が折れないように、鉄の柱が添えられているのがおもしろい。

これに次ぐ大ソテツは西之表市国上集落にもあります。自然を愛する種子島人の心意気が感じられますね。

 


「鐡炮記」 (原文現代語訳・上妻純一郎)
  南浦文之(なんぽぶんし)著 原本 国立図書館所蔵→鐡炮記 
隅州の南に一島あり。州を去ること一十八里。名づけて種子と日ふ。我が祖、代々ここに居る。古来相伝ふ、
島を種子と名づくるものは、此の島、小なりと雖も、其の居民庶くして、且つ富めること、譬へば播種の一種子
を下して、生々窮り無きが如し。是の故に名づくと。


是より先、天文癸卯八月二十五日丁酉、我が西の村小浦に一大船有り。何れの国より来れるかを知らず。船
客百余人、其の形、類せず。其の語通ぜず。見る者以て奇怪と為す。其の中に大明の儒生一人、
五峯と名づ
くる者あり。
今、其の姓字を詳にせず。時に西の村の主宰織部丞なる者あり。頗る文字を解す。偶々五峯に遇
ひ、杖を以て沙上に書して云ふ。「船中の客、何れの国の人なるやを知らず。何ぞ其の形の異なるや」と。五
峯、即ち書して云ふ。

「此れは是れ西南蛮種の賈胡なり。粗々君臣の儀を知ると雖も、未だ礼貌の其の中に在るを知らず。是の故に
其の飲むや、抔飲して盃せず。其の食うや、手食して箸せず。徒々嗜欲の其の情にあきたるを知りて、文字の
其の理を通ずるを知らざるなり。所謂、賈胡一処に到りて輒ち止まるといふは、此れ其の種なり。其の有る所を
以て其の無き所に易ふるのみ。怪しむべき者に非ず」と。是に於て、織部丞又書して云ふ「此を去ること十又三
里にして一津あり。津を赤尾木と名づく。我が由って頼む所の宗子、世々居る所の地なり。津口数千戸あり。

戸ごとに富み、家ごとに昌えて、南商北賈、往還織るが如し。今船を此に繋ぐと雖も、要津の深くして且つ漣た
ざるの愈るに若かず。之を我が祖父恵時と老父時尭とに告げん」と。


時尭即ち扁艇数十をして之を拏いて、二十七日己亥、船を赤尾木の津に入れしむ。斯の時に丁って津に忠首
座なる者あり。日州龍源の徒なり。法華一乗の妙を聞かんと欲して津口に寓止し、終に禅を改めて法華の徒と
為り、号して
住乗院と日ふ。殆ど経書に通じ、筆を揮うこと敏捷なり。偶々五峯に遇ひ、文字を以て言語を通
ず。五峯亦以為へらく「知己の異邦に在る者なり」と。いはゆる同声相応じ、同気相求むる者なり。


賈胡の長二人あり。一は牟良叔舎と日ひ、一は喜利志多侘孟太と日ふ。手に一物を携ふ。
長さ二三尺、其の体為るや、中通外直、重きを以て質と為す。其の中は常に通ずと雖も、其の底は密しく塞が
んことを要す。其の傍らに一穴あり。火を通ずるの道なり。形象、物の比倫すべき無し。
其の用為るや妙薬を其
の中に入れ、添ふるに小団鉛を以てす。先づ一小白を岩畔に置き、親ら一物を手にして、其の身を修めて、其
の目を眇め、其の一穴より火を放てば、則ち立ろに中らざる莫し。其の発するや掣電の光の如く、其の鳴るや
驚雷の轟くが如し。

聞く者、其の耳を掩はざるは莫し。一小白を置くものは、射者の鵠を侯中に棲くの比の如し。
此の物一たび発せば、銀山も摧くべく鉄壁も穿つべし。姦きの仇を人の国に為す者、之に触るれば則ち立ろに
其の魄を喪ふ。況や麋鹿の苗稼に禍する者をや。其の世に用あるもの勝げて数ふべからず。


 時尭之を見て以為へらく「希世の珍なり」と。始め其の何の名なるを知らず。其の何の用為るかを詳にせず。
既にして人名づけて鉄砲と為すものは、知らず、明人の名づくる所か。抑々知らず、我が一島の者の名づくる所
か。


 一日、時尭重訳して、二人の蛮種に謂って曰く「我、之を能くすと日ふには非ざるも、願はくは之を学ばん」
と。蛮種も亦訳を重ねて答へて曰く「君若し之を学ばんと欲せば、我も亦其の蘊奥をつくして以て之を告げん」
と。時尭曰く「蘊奥得て聞くべきか」と。蛮種曰く「心を正すと目を眇むるとに在るのみ」と。時尭曰く「心を正すと
は先聖の以て人を教ふる所にして、我の以て之を学ぶ所なり。大凡天下の理、事に斯に従はずんば、動静云
為自ら差ふこと無き能はず。公のいはゆる心を正す、豈復た異なることあらんや。目を眇むるものは其の明、以
て遠きを燭すに足らず。之を如何ぞ、其の目を眇むるや」と。蛮種答へて曰く「夫れ、物は約を守るを要す。約を
守る者は、博く見るを以て未だ至らずと為す。目を眇むる者は、之を見るの明らかならざるには非ず。其の約を
守りて以て之を遠きに致さんと欲するなり。君、其れ之を察せよ」。時尭喜んで曰く「老子のいはゆる見ること小
なるを明と日ふとは、其れ斯の謂か」と。


 是の歳、重九の節、日、辛亥に在り、良辰を涓取して、試みに妙薬と小団鉛とを其の中に入れ、一小白を百
歩の外に置きて、之が火を放てば、則ち其れ殆ど庶幾いかな。時人、始めにしては驚き、中ごろにしては恐れ
て之を畏れ、終りにしては翕然として亦曰く「願はくは之を学ばん」と。


 時尭、其の価の高くして及び難きを言はずして、而ち蛮種の二鉄砲を求めて、以て家珍と為す。其の妙薬の
擣篩和合の法は、小臣
篠河小四郎をして之を学ばしむ。時尭、朝に磨し夕に淬し、勤めて已まず。向の殆ど庶
幾きもの、是に於てか百発百中、一も失するもの無し。


 此の時に於て、紀州根来寺に杉の坊某公といふ者あり。千里を遠しとせずして我が鉄砲を求めんと欲す。時
尭、人の之を求むるの深きを感ずるや、其の心に之を解して曰く「昔、徐君、季札の剣を好む。徐君、口に敢へ
て言はずと雖も、季札、心に已に之を知る。終に宝剣を解けり。吾が島偏小なりと雖も、何ぞ敢へて一物を愛し
まんや。且つ復た、我が求めずして自ら得るすら喜んで寝ねられず。十襲して之を秘す。而るを況や、来って求
めて得ずんば、豈復た心に快からんや。我の欲する所は、亦人の好む所なり。我、豈敢へて独り己に私して匱
におさめて之を蔵せんや」と。即ち
津田監物丞を遣はし、持して以て其の一を杉の坊に贈らしむ。且つ、妙薬の
法と放火の道を知らしむ。時尭、把玩の余り、鉄匠数人をして熟々其の形象を見、月に鍛へ、季に錬りて、新
たに之を製せしめんと欲す。其の形制は頗る之に似たりと雖も、
其の底の之を塞ぐ所以を知らず。

 其の翌年、蛮種の賈胡、また我が島の熊野一の浦に来る。浦を熊野と名づくるものは、亦、小廬山、小天竺
の比なり。賈胡の中に幸ひに一人の鉄匠あり。時尭以為へらく「天の授くる所なり」と。即ち金兵衛清定といふ
者をして、其の底の塞ぐ所を学ばしむ。漸く時月を経て、其の巻いて之を蔵むるを知れり。是に於て歳余にして
新たに数十の鉄砲を製す。然る後に其の臺の形制と、其の飾の鍵鑰の如き者とを製造す。時尭の意、其の臺
と其の飾とに在らず。之を軍を行るの時に用ゐるべきに在り。是に於てか家臣の遐邇に在る者、視て之を效ひ
て、百発百中する者、亦其の幾許なるを知らず。


 其の後、和泉の堺に橘屋又三郎といふ者あり。商客の徒なり。我が島に寓止するもの一・二年にして、鉄砲
を学ぶもの殆ど熟せり。帰郷の後、人皆名いはずして、呼んで鉄砲又と日ふ。然る後、畿内の近邦皆伝へて之
を習ふ。翅に、畿内、関西の得て之を学ぶのみに非ず。関東も亦然り。


 我嘗て之を故老に聞く。
曰く「天文壬寅、癸卯の交、新貢の三大船、将に南の方、大明国に遊ばんとす。是に於て畿内以西の富家の
子弟、進んで商客と為るもの殆ど千人、楫師、さを師の船を操ること神の如き者数百人、船を我が小島に艤
す。既にして天の時を待ち、纜を解き、橈を斉へ洋を望んで若に向ふ。不幸にして狂風、海を掀り、怒涛、雪を
捲いて、坤軸も亦折けんと欲す。吁、時なるか、命なるか。一貢船は檣傾き、楫摧け烏有に化して去る。二貢
船は、漸くにして大明国寧波府に達す。三貢船は乗りきることを得ずして我が小島に回る。翌年再び其の纜を
解いて南遊の志を遂げ、飽くまで海貨蛮珍を載せて将に我が朝に帰らんとす。大洋の中にして黒風忽ち起こ
り、西東を知らず。船、遂に飄蕩して東海道伊豆州に達す。州人、其の貨を掠め取る。商客も亦其の所を失
ふ。船中に我が僕臣松下五郎三郎といふ者ありて、手に鉄砲を携ふ。既に発して其の鵠に中らざる莫し。州人
見て之を奇とし、窺伺傚慕して多く之を学ぶ者あり。茲より以降、関東八州曁び率土の浜、伝へて之を習はざ
るはなし」と。


 今、夫れ此の物の我が朝に行はるるや、蓋し六十有余年なり。鶴髪の翁なほ明らかに之を記ゆる者あり。是
に知る、向に蛮種の二鉄砲、我が時尭、之を求め之を学び、一発、扶桑六十余州を聳動せしめ、且つ復た、鉄
匠をして之を製するの道を知らしめて、五畿七道に偏からしむ。然れば則ち、鉄砲の我が種子島に権輿するや
明らかなるを、昔、一種子の生々無窮の義を採って、我が島に今以て其の讖に符へりと為す。古曰く「
先徳、
善あるに、世に昭々たる能はざるは、後世の過ちなり
」と。因って之を書す。

    慶長十一年丙午重九の節
    種子島左近太夫将監藤原久時(花押)=




         
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