種子島は1番
種子島は1番のページは、鉄砲伝来、鉄砲記、古代米赤米、さつま芋、メクラへび、国内最古の落とし穴遺跡の話と続きます。
●種子島が日本の歴史に登場した日 |
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*天武6年(677年)天武天皇631-686「二月、 多禰島の人らに飛鳥寺の西の槻の木の下で饗応された」 現代語訳・・この月に種子島の人が飛鳥寺にやってきたので、天皇自ら宴会を主催して彼らをもてなした) *それから2年後天武天皇8年11月に正副2人の高官を種子島に派遣した。 重要なのは新羅や高麗の国に派遣するのと同じように正副二人の高官(現代で言えば外務大臣と外務副大臣)を派遣していることである。理由は種子島には意外にも多くの米が獲れたからであろう。 注・「槻(つき)の木」とは欅(けやき)の古称、専門家には異種とする意見もある。 「饗応」は服従関係の成立や確認。多禰島(たねのしま)の禰は示へんに爾の表記) *天武10年(681年)「八月二十日、多禰島に遣わした使人(正副2人の高官が大和に帰る)らが、多禰島の地図を奉った。 その国は京を去ること五千余里筑紫の南の海中にある。住民は髪を短く切って草の裳をつけている。稲は常に豊かに実り、年に一度植えれば二度収獲できる。土地の産物は支子・莞子および種々の海産物が多い」 *同年9月に天武天皇自ら主人になって、飛鳥寺のそばの川のほとりで同行してきた種子島人の為に宴会をひらいた。 注・ひとたび植えて再び収む⇒一度切った切り株から新たに芽(ひこばえ)が出てきて短期間で稲穂になり米が収穫できること。種子島ではこの二度目の米のことを「ヒツツ」と呼んでいる。 注・ヒツツとは櫃(ひつ。石、板などで造った箱の形をした容器)の変化したもの。 奈良時代中期大隈の国の一部になるまで種子島は多禰国(たね国)という国であった。 支子はクチナシ、莞子(かま)はイグサのこと。移動を考慮すると使者の滞在は約1年。 (解説・南種子町出身 古市和義) *昭和30年代まではヒツツは収穫し、販売用ではなく自家用食として食べていたが、耕運機、トラクターが導入された平成13年の今ではこの光景も見られなくなりました。 |
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★ポルトガル人は3度種子島に来た!? | |
回目の来島・1542年(天文11年)室町時代末期 ポルガル国史の中にポルトガル人、アントニオ、ガルバン著「諸国新旧発見記」がある。それによると1542年3人 のポルトガル人が中国船(ジャンク)に乗って東シナ海の港リャンホーに向かって出向したが台風で遭遇し種子 島、南種子町前之浜に漂着した。これにより日本と言う国が進んでおらず貿易上非常に有利な国であることが 解かった。 これは「ポルトガル人の意志に関係ない」1回目の日本上陸である。が、このときには鉄砲は伝わっていない。 注・この時代、ローマ教皇アリキサンドル6世教書に「初めて発見した土地は自分達のものにしてよい」とあるから 発見した国は「国史」に記録しなければならない。ですから信じるに足りる記録なのです。 2回目の来島・1543年(天文12年)8月25日 貿易(交易、略奪、キリスト教布教)に有利だと解かれば再度行くのは当然のことである。西之表市の赤尾木港 に2人のポルトガル人の道案内をしたのが五峰(後の中国人倭寇の首領、王直)と言う人物である。これは「自 分たちの意志」での日本(種子島)上陸、2回目である。(鉄砲記には台風で漂着したとの記述は全く無い) 2回目の目的は、貿易つまり「鉄砲の売込」をする為である。売込むためにまず種子島家16代当主、種子島時尭 (顔は原人と同じくヨカニサーだったとか?)にポルトガル製ではなくマラッカ製の鉄砲2丁又は3丁を売ったので ある。この時初めて「鉄砲伝来」となったわけである。 これにより鉄砲は日本全土に広がり皆が鉄砲と火薬を欲しがるから大儲け出来る商売、貿易だと、五峰とポルト ガル人は考えたのである。 *しかし今も昔も真似することは得意中の得意の日本人、島の刀鍛冶の技を利用し、矢板金兵衛清定は何と僅 か4ヵ月後には鉄砲の複製を作ったという。 3回目の来島・1544年(天文13年)3月 しかし鉄砲の複製は完全ではなかった。銃身に火薬を入れた後の蓋をする方法が解からない。当時日本にはネ ジ式で蓋をする技術、雄ネジ雌ネジが無かったのである。 *そんな折り今度はポルトガル人を船長にした船が中種子町の熊野浦に来航した。運良く鉄砲鍛冶が乗船して いたので教えを乞い完全に出来上がった。それから僅か5ヵ月半後には600挺以上の鉄砲を造ったと言う。 *(ネジの作り方を教えて貰う代わりに金兵衛の若狭という名の娘をポルトガル人に嫁にやったと言う若狭伝説 がある、下段に記載)。 矢板金兵衛の作った鉄砲の性能は、この時代、世界でも一級品だったことが現在でも評価されている。 が・・しかし・・鉄砲本体は出来てもただの鉄棒と同じだったのである。実戦では使えない。何故って?玉を発射 させるには火薬を爆発させなければならない。爆発させるには硝石(硝酸カリウム)が必要であるが、残念なが ら日本には産出しない。鉄砲と言う銃身、鉄棒を持っていても何の役にも立たない。 *従って種子島時尭は欲しい人にはタダでやると言うことになる。その頃種子島に交易で来ていた紀州根来の津 田監物、堺の商人橘屋又三郎に鉄砲製作の技術全てを気前良く教えたのである(ああーもったいなかあー)。種 子島時堯は、鉄砲を独占しようにも出来なかった訳である。 これより30年後に鉄砲は日本全土に広がり戦国武将達の合戦の主役となり、日本の歴史を変えることとなるの であ〜る。 *種子島は鉄砲の権利独占は出来なかったが、鉄砲の製造は盛んに行われ50軒の「鉄砲鍛冶屋」があったとい う記録がある。1590年(天分18年)太閤秀吉の命により200挺の鉄砲を数ヶ月で完成させたと言う。 *この鉄砲製造技術は、種子ばさみ、鍬、などの生活用具に活かされてきたが、現在では後継者不足で鍛冶屋 さんも2軒だけとなっている。 *ネジという言葉は、底を塞ぐ術をいろいろ考えて念じたことからネジという言葉が生まれたと言う。ちなみに、物 事の始まりの時に「火蓋を切る」と言うことわざは、鉄砲の銃身内の火薬を爆発させる為には、釘の穴ほどの火 薬の道案内(導火線の役目)が必要である。水などで濡れては火はつかないから普段はスライド式の「蓋」をし ておく。この蓋を開けることを「火蓋を切る」と言う。 (参考資料・井沢元彦著「逆説の日本史、第9巻」・井塚正義、飯田賢一著「鉄砲伝来前後」) |
●鉄砲伝来・わかさ伝説 |
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(矢板家に伝わる若狭の系図 わかさの墓はソテツの根元の小さい石) ★日本で最初の白人との「国際結婚」は種子島の女性「わかさ(若狭)」 鉄砲の複製造りに際してどうしてもその当時の技術では出来ないものが一つありました。それは銃身の雌ネジ の造り方でした。鉄砲造りを依頼された八板金兵衛はその技術を教えて貰う代わりに自分の娘、わかさをポルト ガル人に嫁がせた。恋愛だったのかもという説は考えられない。私見だが、技術を教えてもらうための見返りだっ たと判断するのが妥当なところでは・・。 いずれにしても白人との国際結婚の第1号である。 その伝統は現在でも続き「外国人」と結婚する人は多い(それだけヨカニサー、ヨカ嫁ジョーが多いということかな?妙に納得?) *本能寺ご用達の刀鍛冶、矢板金兵衛清定は 鉄砲伝来の6年前1537年、室町時代末期(天文6年)8月15日、濃州、関、現在の岐阜県関ケ原から法華宗弾 圧の難から逃れる為に刀鍛冶の腕を活かせる種子島に妻のカメ女、娘のわかさ、弟の清賀(きよよし)の4人で 来島した。 わかさは和歌も詠む才女で、遠く異国で種子島の父母を懐かしみ「月も日も大和のかたぞ懐かしき わがふた親のありと想へば」が伝えられている。 「わかさ」は後世「若狭」とも呼ばれるのは、わかさという名前の由来にあります。わかさの母の祖父は若狭国(福井県)の刀鍛冶であった。風光明媚な若狭湾の美しさからその名前を付けたと言う。 *ところで、嫁いだ後のわかさはどうなったのだろうか? シュム国(タイ)の商館で働いていたとも・・。また、その後一度種子島に里帰りした際に、父の金兵衛は、「わか さは急病で亡くなった」と偽りの葬儀をし以後結婚することなく島で静かに暮らしたとも・・。 *海音寺潮五郎氏は鉄砲伝来にまつわる哀しい若狭伝説を心にとめて「あハレここ若狭の墓か白砂の もろく崩 るる海のべの丘」と詠った。その歌碑が若狭の墓が見える西之表市雲之城の丘の上にたっている。 後年、わかさ姫と呼ぶ人もいるがこれは厳密に言えば間違いです。わかさは「姫」ではありませんから。「姫」と言う呼び名はその悲しい運命をいたんで後世の人が哀れいとおしみ、賛辞の意味で呼んでいるものです。 (種子島出身、徳永健生著「たまゆらの海」より) |
★古代米 赤米の栽培 南種子町茎永 古代米赤米、宝満神社のお田植え祭り動画 種子島では日本の米の起源とされる古代米「赤米」が現在でも栽培されている。弥生時代から栽培されていた らしい。東南アジア、古代中国からの漂流民が伝えたものであろう。 南種子町茎永集落、宝満神社の神、玉依姫がもたらしたと言う伝説がある(さすがだね〜種子島は)。同神社の 赤米は、東南アジアに多いジャバニカという種類で、米粒が小さく、茎は1.6メートル前後と高長い(この茎が長 いことが茎永と言う地名の語源となっている)。 お田植え祭りは、稲作の神が宿るとされる「御田(おた)の森」で、苗に森の力を授かる神事である。女人禁制の 神田で田植え。茎南小児童をはじめ、そろいの白い法被を着た男性16人が丁寧に苗を植える。あぜでは雨田健 二郎さん(44)が独特の節回しで田植え歌を披露し、最後はお田植え舞の奉納。舟の形をした舟田で、正装した 池亀幸宣さん(66)、チエ子さん(61)夫妻が両手に苗を持ち、ゆったりとした動作で舞う。集まった住民らには赤 米のおにぎりと煮染めが振る舞われ。 古代米 宝満神社赤米の刈入れ動画 赤米の刈入れは神事の後、集落総代の十数人が「お田」と呼ばれる神田に入ってカマで手刈り。「お田」は、女 人禁制で、田植えから刈り入れまで男衆が手がける。 足踏み脱穀機で昔ながらに脱穀、収穫。赤米は門外不出とされ、来年のお田植え祭などでおにぎりにして参加 者らに振る舞われる。 現在の種子島は「超、超早場米」こしひかりの産地でもある(7月10日前後収穫)これがまた超ウマイ! |
鉄炮記(てっぽうき) 種子島(たねがしま)久(ひさ)時(とき)公(こう)に代(か)わって 大隅国(鹿児島)の南にひとつの島がある。大隅半島からは十八里の彼方で、名づけて種子島(たねがしま)と いう。我が先祖は代々ここに住んでいる。古くからの伝えによると、島を種子と名づけるのは、この島は小さい が、もろもろの民(庶民)が住み、それぞれに豊である。 例えれば播いた一つの種が芽を出して生き生きと生い茂り、豊かでかぎりない恵みを与える。そんな様を名づけ たものであろう。 これより先、天文十二年(一五四三)、秋の八月二十五日に西村の小さな浦(前之浜)にひとつの大船が現われ た。どこの国から来たか分からなかった。乗船していた者は百余人であったが、その容貌はこれまでに見たこと もなく言葉も通ぜず、村人は奇異の目で眺めた。 その中に明国の儒者がひとり、五峯(ごほう)と名乗った。名前以外の字などは詳らかではなかった。また西村 の主宰で織部丞(おりべのじょう)という者がいて大変よく文字を理解できた。偶然に五峯(王直)と出会い、杖 (つえ)で砂の上に文字を書いて尋ねた。「船中の客はどこの国の人ですか。顔形といい、とても変わった人たち ですが」と。 五峯(ごほう・王直)はすぐ砂に返事を書いた。「この者らは異国の商人(西南蛮種の賈胡)です。君主と家臣と は義(忠義)によってむすばれることは心得ていますが、細かい礼儀作法については知りません。それに、酒を 飲むにも杯(さかずき・盃)を使って飲まず、食べるときも箸を使って食べません。ただ、その欲するままに振る舞 って、文字で意思を伝えあうこともできません。 ふつう商人達は、ひとつの場所に来て、そのままそこで商売をするものですが、彼らもその類です。持っている物 をそれが無いところに持っていって商売をします。怪しむような者ではありません」と。 ここにおいて織部丞(おりべのじょう)がまた書いて言うには、「ここから十三里(五十一粁)の所にひとつの津が あり、赤尾木の津(西之表港)と言います。数千戸の家があり、どの家も豊に栄えて商いもまた盛んです。今、船 はここ(種子島南端の前之浜)に停泊してもよいが、いずれ深さがあって波の穏やか(漣・さざなみ)な港が必要 でしょう」と。このことを我が祖父の惠時(しげとき)と父の時堯(ときたか)とに告げた。 時堯(十四代島主・種子島時堯)は、すぐに小舟数十隻を用意して明国船を引かせ、二十七日に赤尾木の津 (西之表港)に入港した。その時、港に忠首座という者がいた。日向国(宮崎)は龍源寺の修行僧であった。法華 一乗の研修の為にこの地に滞在し、禅宗から法華宗の僧となって住乗院と名乗っていた。 経書(四書五経)に詳しく、また筆も立った。住乗院は偶然に五峯と出会い、文字で意志を伝えあった。五峯は 「異国の地に知己を得た」と喜んだ。言葉と気持ちが通じ合ったものであろう。 異国商人の中に二人の首長がいた。一人は牟良叔舎(ムラシュクシャ)であり、もう一人は喜利志多侘孟太(キ リシタダモウタ)であった。手にはある物を携えて、長さは二、三尺あり、その形状は中が空洞で真っ直ぐ伸びて 大変重くできていた。中は貫通していたが、底の方は固く密閉しなければならないものだった。 横には穴が一つあって、そこから火をつける。他にその形には似たものを見つけられない代物であった。使い方 はその中に火薬を入れ、鉛の弾を添えた。的(一小白)を岸の畔に置き、鉄炮を手に身を構え、目を眇め(片目を 閉じ)て、その穴から火を放つとたちまち的に当たるのだった。その光は稲妻のようで、また音は雷鳴の大きな 響きに似て、聞く者は誰も耳を覆うのだった。 的を置くのは弓を射る人の鵠(くぐい)が的の中に棲むようなものである。これをひとたび撃ったなら銀山も砕くこと ができるし、鉄壁に穴を開けることもできるだろう。人の国に災いをもたらすような邪悪な者も、これがあれば直に その魂を失うだろう。まして苗を盗んだりする者などひとたまりもなく、その使い方は数えあげればきりがない。時 堯はこれを見て「世にも珍しい物だ」と思った。 初めはその名前も分からず、その使い方も詳しく分からなかった。それを最初に鉄炮と呼んだのは明の人なの か、それとも我が島(種子島)の者なのかも分からなかった。ある日、時堯は明国と南蛮の通訳(重訳)を介し て、異国商人の二人に言った。「我はこの鉄炮をうまく使いこなせないので、できれば使い方を学びたいのだが」 と。彼らもまた通訳を介して答えた。「殿様がこれを学びたいのであれば、我もまた奥義を詳しくお教えましょう」 と。 時堯は言った。「その奥義とはどういうものか」と。彼らは答えた。「それは心を正すことと、目を眇める(片目を閉 じる)だけのことです」と。時堯は言った。「心を正すとは先聖(孔子)の教えにもあり、我もそれを学んだことがあ る。およそ天下の理(ことわり)であり、日頃の立ち振る舞いや言動もこれに違えてはいけない。 孔子の言われる心を正すとは、またこれと同じであろうか。だが目を眇める(片目を閉じる)と遠いところが見えな くなってしまう。どうして目を眇めるのか」と。彼らも通訳を介して答えて言うには、「物事には、おのずと出来た手 順や決まりがあります。広く見るだけでは良く狙えず、目を眇めると余分なものが見えません。その決まりを守る ことを願います。そうすれば遠くの的が明らかになりましょう。 殿さま、それをご理解くださいませ」と。時堯は喜んで言った。「老子の世にいわれる、小を見るを明と曰う(見小 曰明)、それをこのように言ったものだろう」と。この年の重陽の節(九月九日)、良い日柄に試し撃ちを行った。火 薬と小さな鉛の弾をその中に入れて、的を百歩の距離の所に置いて引き金を引くと、それは殆ど的の近くに当た るのだった。見ている人は初めに驚き、次には非常に恐れ、終わりには多くの人が一様に言った。「使い方をぜ ひ学びたいものだ」と。時堯はとても手が届かないほど値段が高いにもかかわらず、すぐにその異国商人から二 挺の鉄炮を買い求めて家宝とした。 その火薬の調合方法については家臣の篠川小四郎に学ばせた。時堯は朝な夕なこれを磨き、手入れが止むこ とがなかった。以前は殆ど近い所に当たっていたが、ここにおいて百発百中、ひとつも外すことがなかった。さ て、この頃に紀州(和歌山)の根来寺(ねごろじ)に杉の坊某公(杉之坊明算)と言う者がいた。 千里の道も遠しとせず、鉄炮を求める気持ちが強かった。時堯は、その熱心さに感服し、その気持ちを推しはか って言った。「昔、呉の国(中国)の徐君(じょくん・徐の王)が、友の季札(きさつ)が持っている剣に心を奪われ た。徐君は口に出して言わなかったが季札はその心を察し、ついに剣を贈ったものだ。我が島はとても小さい が、どうして物を惜しむ事があろうか、いや惜しまない。そしてまた、自ら求めずして思いがけず得たものは喜び で寝ることができず、何重にも包んで大切にしまうものだ。 もし自ら求めに来て得ることができないとしたら、どんなに残念なことであろうか。我自身も欲しいと思うのだから 誰でも欲しいであろう。我はどうして鉄炮を自分だけの物にし、櫃(ひつ)に納めてこれを隠くすだろうか」と。すぐ に津田監物(つだけんもつかずなが・算長)を遺わして、紀州の根来寺の杉之坊明算(杉の坊)に鉄炮一挺を贈 った。 また、火薬の調合方法と発炮の仕方なども教えさせた。時堯は鉄炮で(玩具のように)遊んでいたが、やがて鉄 匠数人を集めて、形状をじっくりと観察させた。試行錯誤と鍛錬の月日をへて、新たな鉄炮が出来るのを望ん だ。とても形の似たものはできたが、遂に、その底を塞ぐ方法を知ることはできなかった。 その翌年(一五四四)、異国商人(蛮種の賈胡)が再び種子島の熊野の浦に来航した。この浦を熊野というの は、小廬山・小天竺などと同じである。その商人の中に幸いにも一人の鉄匠がいた。時堯はこれを天の助けと思 い、すぐに金兵衛清定(八板金兵衛)という者にその底の穴を塞ぐ方法を学ばせた。 月日をへてようやく、そのネジを巻いてこれをはめ込む方法を習得した。ここにおいて一年余りで新たに数十挺の 鉄炮を製造した。その後は台座の形や構造と、その飾りの鍵と錠のようなものを製造した。時堯の目的は、その 台座や飾りの製作ではなく、行軍の際に実戦使用することにあった。 ここにおいて島の家臣達はこれを見て習い、百発百中の腕前になる者が数え切れなかった。その後、和泉国 (大阪)堺の橘屋又三郎(貿易商人)という者が来島した。商人であり種子島に居住すること一、二年にして鉄炮 についての全てを学んだ。堺に帰った後、人は皆その名前で呼ばずに鉄炮又(てっぽうまた)と呼ぶほどであっ た。その後、畿内の国々に伝わり、皆がこぞって鉄炮の使い方を習った。また関西だけでなく関東にも広まって いった。我(種子島久時)はかつて次のことを故老に聞いた。 「天文十一年(一五四二)から十二年(一五四三)にかけて、明国へ朝貢する三大船(遣明船)が、まさに南の方 に出航しようとしていた。ここにおいて畿内以西の富豪の子弟で、自ら商客になる者が約千人、また船の楫(か じ・舵)や?(さお・棹)を神のごとく操る者が数百人も乗り込んでいた。 船は我が島で出航準備をして、船出に都合の良い日を待っていたが、纜(ともずな)を解き橈(かい)を整えて大 海原に乗り出して行った。ところが不幸なことに狂風が海上を吹き渡り、怒涛が雷を巻き上げて船に襲いかか り、坤軸(こんじく・地軸)もまた砕けるかのようであった。もはや最後の時の運命かと思うほど、第一船は檣(ほ ばしら・帆柱)も傾き、楫(かじ)は砕け、粉々になって海に沈んでしまった。 また第二船はやっとの思いで明国の寧波(にんぽう)に到着することができた。最後の第三船はこの嵐を乗り切 ることができずに、仕方なく種子島に引き返して帰りついた。そして翌年に、その第三船は再び纜(ともずな)を解 いて出航し、南に向かって航海して遂に明国に着くことができた。数え切れないほどの財貨と異国の珍しいもの などを載せて、いざ帰国しようとした時、大洋の中で暴風が吹き荒れて西も東も分からなくなった。 船は遂に漂流して東海道の伊豆にたどり着いたが、そこでは土地の者が船の財貨を盗み取り、商人達もまたそ の居場所もなかった。その船中に我が種子島家の家臣で松下五郎三郎という者がいて、手には鉄炮を携えてい た。素早く撃っては的に当たらないものはなかった。伊豆の人々はこれを見て大変驚いた。 そして鉄炮についての術を聞き、また真似て学ぶ者が多かった。これ以後、関東八州と言わず全国津々浦々ま で伝わり、これを習わないことがなかった」と。今、この鉄炮が我が国に伝わってからおよそ六十有余年である。 白髪の老人でこの事をはっきりと覚えている者もいる。 今に知る先の異国商人の鉄炮二挺を我が父時堯が買い求め、その使い方を習得して、それは日本全国六十余 州を大いに驚かせた。さらに鉄匠によってその製造方法を知らしめ、こうして五畿七道に普及しました。それは即 ち鉄炮が我が種子島で作り始めたのは明らかである。 昔一つの種から生き生きと豊かでかぎりない恵みを与える様になぞらえて種子島と名づけたが、今に鉄炮の事 を考えると、この名前は予言どおりである。昔の人は言っている、「有徳の先人が善いことを成したのに、世の中 に知れ渡らないとしたら、それは後世の者の過ちである」と。因ってこれを書いた。 慶長十一年九月九日(丙午重陽節) 解説・『鐡炮記』は十六代島主・種子島久時が、父・種子島時堯(1528-79(52)の鉄炮伝来(1543)の顛末を後世 に残すため、島津氏に仕えた僧・南浦文之に依頼して慶長十一年九月九日に完成した鉄炮伝来の基本史料で ある。(1625『南浦文集』撰) ・種子島久時(1568-1612(44)は、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役/壬辰戦争)に四度参戦(1593/95/96/ 98)して鉄炮の威力を実戦で体験した。 ・南浦文之(文之玄昌1555-1620.10.25(65)は、島津三代(義久・義弘・家久)に仕え、幕府・琉球・明国など対外 文章を担当した。1603年に駿府で徳川家康に見え、晩年には後水尾帝に召され宮中で四書の新註講を行う。 漢文訓読の「文之点」を完成、示源流を命名、日本一や日本晴れの初見、屋久島聖人・泊如竹の師である。 ・1606『鐡炮記』南浦文之 1625『南浦文集』1677『種子島家譜』 ・天文十二年八月二十五日は、ユリウス暦1543年9月23日である。 ・鉄炮伝来年論争や異国商人数論争や何国人かは歴史の本質とは無関係。 2018/08/01●『鐡炮記』現代語訳 Text by Kazuyoshi Furuichi 2018 |
■ゆうれい坂、びっくり坂、錯視の坂は宇宙センターに負けない名所! !だが誰も知らない |