種子島ヒ-ロ-大相撲  
*横綱西ノ海・鶴ヶ嶺道義 薩摩洋時久兄弟・大関若嶋津・光法・日高大樹・若隼人・常の山・大寛関のページです。   


第25代横綱西ノ海 種子島は大相撲力士の島
    参考資料(日本大相撲協会・旺文社大相撲力士年鑑・ふるさとますだ今むかし)
 
*西ノ海 嘉治郎(にしのうみ かじろう) 8代目井筒親方 大正5年1月場所優勝
本名 牧瀬→近藤 休八 ・明治13年2月6日生 ・昭和6年1月27日(50歳)没
出身地・鹿児島県熊毛郡西之表市川迎
初土俵・明治33年1月 ・井筒部屋 ・四股名 種子ヶ島→星甲→錦洋→西ノ海
・新入幕 明治39年5月 ・最高位 横綱 ・最終場所 大正7年5月
幕内通算 25場所 106勝38敗27分9預70休  得意手 突っ張り、左四つ、寄り  185cm 139kg
*マスメディアの発達した現在であれば日本中を沸かした種子島のヒーローであったろう!
*農業と木挽を営む家の二男で、15歳で島一番の大男と言われて近所の人に角界入りを勧められるが父が反対していたのを、巡業に来た逆鉾が熱心に勧誘して入門させた。
入門時から有望視されたので井筒から命じられて序二段ながら幕下の申し合いに加わったが軽く捻られ、井筒の逆鱗に触れて足腰が立たなくなる程に青竹で打ちのめされた。
堪えられずに脱走し、東京駅で汽車を待つ間に仲間達に見つかって連れ戻されたものの、井筒も反省して暖かい言葉と金一封をくれたので、以後の稽古では更に身が入り強味を増した。
体格を生かして突っ張りから左四つで寄る取り口は勝ち味が遅く小兵を苦手としたが、組んでも離れても良く安定していた。
温厚で、土俵態度は堂々としていて長者の風格を具えた。
大正5年2月に吉田司家から横綱免許が授与された。後に取締を務めた。
昭和6年1月後の役員改選で東西両陣営から 6名ずつとした談合を破って井筒系の年寄を増やしたので反陣営から責められ、取締を辞めて間もなく、種子島人特有の情愛に厚い親方は 「他をあばかず非は我にあり」と自ら昇天した。    

*二枚鑑札(一人二役)
大関在位時に初代西ノ海である井筒親方が亡くなったために年寄井筒も兼ねながらの土俵にも精進し、ついに横綱に昇りつめた。部屋の運営と土俵を立派に果たした力士は稀である。
*負け越して番付が上がる!
初土俵以来6年のスピードで幕内に入幕の俊英力士の実力を試そうと協会は、幕内早々西前頭10枚目の下位番付にもかかわらず横綱梅ヶ谷、大関国見山、関脇太刀山など三役力士との取り組みを組んだ。
結果はあにはからんや3勝4敗1分の好成績を残した。協会は、負け越しながら3枚昇進という粋な計らいをした。現在では考えられない「負け越し昇進」の快挙をやってのけたのである。
*歴史的一番!
明治42年5月場所、29歳のとき飛ぶ鳥も落とす勢いの43連勝中の横綱太刀山を引き落としで 破った。この後太刀山は56連勝したのでもし、負けていたら太刀山の100連勝という驚異の記録が生まれていたのです。


角界初の「兄弟関取 鶴ヶ嶺兄弟」誕生す
   鶴ヶ嶺道芳薩摩洋時久
  

*鶴ヶ嶺 道芳(つるがみね みちよし)
9代井筒親方・本名・下家 道義 ・明治45年1月17日生・昭和47年3月18日(60歳)没
・出身地 鹿児島県熊毛郡中種子町増田
・初土俵・昭和6年5月 ・井筒部屋 ・四股名 種子ヶ嶌→星甲→鶴ヶ嶺
・新入幕・昭和12年5月 ・最高位前頭2枚目 ・最終場所 昭和22年6月
・幕内通算 20場所 99勝139敗24休 金星2個
・得意手 左四つ、吊り、櫓投げ ・188cm 101kg
・年寄名 井筒  
*四股名の云われ
幕内入幕を祝い四股名を星甲から鶴ヶ嶺とした。鶴は薩摩の名城鶴丸城にあやかった。体は名を表すの如く「痩身鶴の如く」と酷評されたが、左四つ吊り、突っ張り、外掛け、豪快なやぐら投げで多くのファンを魅了した。横綱男女ノ川、大関前田山を倒す殊勲をあげるなど活躍した。
*引退後、横綱鏡里の立田川部屋創設の際には井筒親方の的確な助言、援助尽力した。鏡里は終生感謝していたそうです。
*有能で篤実な人柄で双葉山の時津風理事長の補佐役で昭和24年5月〜33年1月まで9年間もの間勝負検査役を勤めた。病に倒れたとき、双葉山は心からその死を悔いたそうです。
星甲、関脇鶴ヶ峰、逆鉾、大雄、錦洋(大我)ら幕内力士を育てた。  

 

薩摩洋 時久(さつまなだ ときひさ) 鶴ヶ嶺の弟
本名 ・下家 時久 大正7年5月5日生 昭和51年1月29日(57歳)没
出身地・鹿児島県熊毛郡 中種子町増田
初土俵・昭和12年 5月 ・井筒[部屋 
最高位・幕内13枚目  最終・昭和19年 5月
幕内通算・1場所 5勝10敗 得意手 左四つ、吊り ・ 185cm 92kg
*26歳の若さで引退し故郷種子島に帰る。兄鶴ヶ嶺が故郷に凱旋し父母の墓参りに来たときは雨の日だった。
弟の時久は兄が濡れないように傘をかかげ、濡れた足袋を真新しいタオルで拭いていた姿に相撲界の礼儀、兄を敬い慕う弟の姿に周りの村の人たちは皆、感激の涙をながしたそうです。  

大関若嶋津
  

(画像 松ヶ根部屋HP)
*大関若嶋津 六夫(わかしまづ むつお) 松ヶ根部屋親方 
幕内優勝2回・敢闘賞2回・技能賞3回
・本名・日高 六男 ・昭和32年 1月12日生
・出身地 鹿児島県熊毛郡中種子町増田
・初土俵 昭和50年3月 ・二子山部屋 
・新入幕 昭和56年 1月 ・最高位 大関 ・最終場所 昭和62年 7月
・通算 40場所 356勝219敗13休 得意手 左四つ寄り、上手投げ 188cm 122kg

■大関若島津・入門から引退までの動画
 

■相撲甚句若嶋津・大関昇進記念 動画


*農家の六男で、増田小学校の時から素潜りが得意で蛸を捕ったり、砂糖黍や薩摩芋の収穫を手伝わされている間に体が鍛えられ、高学年では水泳・マラソン・柔道・卓球と運動万能で、相撲大会でも活躍した。
甲南中学校 3年生で鹿児島商工高校相撲部の監督に骨格と粘り強い足腰を見出され、入学金と授業料免除の特待生として勧誘された。
3年生では主将を務め、国民体育大会(茨城)で団体優勝に貢献する活躍で卒業前に黒崎窯業や各大学から勧誘されて大学進学を志していたが、監督に入門を勧められて監督と親しい二子山に入門した。
色浅黒く筋肉質の体格に精悍な容貌で人気が有った。
立ち合いに当たって左下手を取り右から絞って寄る粘り強く巧い取り口だが、上手からの技に乏しかった。
幕下の時から体は細かったが足腰が強く稽古熱心で有望視された。
昭和59年は 2回の幕内優勝を遂げて横綱昇進を大いに期待されたが、左肩関節の負傷や糖尿病に苦しんで果たせなかったのは残念である。

光法賢一 二子山親方(貴乃花部屋)
  
       (画像HP)
*光法 賢一(こうぼう けんいち)安治川親方→二子山親方(貴乃花部屋)
本名・峯山 賢一 生年月日 昭和48年8月18日
出身地・鹿児島県熊毛郡 南種子町島間
初土俵・平成元年3月   宮城野部屋 新入幕・ 平成13年11月・最高位 前頭10枚目 平成19年12月引退・安治川親方を襲名。弟弟子に横綱白鵬。 
得意手 左四つ、下手投げ、寄り 183cm 132kg
● 建設業の長男で、小学校 4年生で剣道や相撲を始め、島間中学校では卓球部に所属したが 3年生の時から陸上競技を始め、砲丸投げで九州大会に出場した。
宮城野部屋後援会会員の親戚から勧誘された時には体育教師を志していたので断ったが、夏休みに上京して部屋に泊まって稽古をしている間に力士を志して入門した。
光法の名は、ひたちなか市の道明寺の住職が考えた 3つの候補から、祖父と父の名に入っている「光」が附いており父の名と同じ「みつのり」とも読むとの理由で選んだ。
左半身で寄るか投げる取り口だが、少し勝ち味が遅いか。明るい性格で幕下を通過するのに 7年頑張った根性の持ち主。

若隼人幸治
  
★若隼人幸治(わかはやと こうじ) 本名・稲子 幸治 昭和46年1月3日生 
出身地・ 鹿児島県熊毛郡中種子町今熊野  初土俵・ 昭和61年 3月  
宮城野部屋 最高位・前頭3枚目 最終・平成14年5月
通算 27場所 190勝215敗  得意手 右四つ、寄り ・185cm 157kg
・稲子の兄は序二段でした。光法関の兄弟子です。
子供の時から相撲を始め、南海小学校 3年生から種子島地区大会で連続して優勝していて、南海中学校で柔道も始めた。
力士に憧れ、宮城野が 4回も訪ねて来て勧誘してくれた熱意にも打たれて入門を決意した。若隼人の名は憧れの北勝鬨に因んで兄弟子と相談して考えた。
現在故郷で介護福祉士として勤務


常の山勝正(つねのやま かつまさ) 
        
本名 下村→橋本→下村 重和  
昭和38年 1月29日生 出身地・ 鹿児島県西之表市国上               
初土俵・ 昭和55年7月 出羽海部屋
四股名・下村→西の龍→西乃龍→常の山          
新入幕・ 平成3年3月  最高位前頭12枚目  最終・平成5年 3月
幕内通算 5場所 29勝46敗  得意手 右四つ、上手出し投げ ・182cm 117kg
・常ノ山の遺族の婿養子となり現在大阪市にお住まいです。
農業と漁業を営む家の三男で、国上町中学校 1年生では野球部に、 2年生からはバレーボール部に所属した。
牧場主として酪農を経営する夢を持っていたが、福岡の電気会社に 3年だけ勤め、給料が少ないので中州の魚市場に転職し、同じ魚市場に勤める元 福田山に紹介されて入門した。
西乃龍の名は市ヶ谷の知人が姓名判断で命名した。軽量を大変な勝ち気と稽古熱心で補った。粘り強く食い下がって投げを打つ取り口だった。                        


大寛宗之(たいかん むねゆき)
 
本名 ・淵上 重昭  
昭和19年10月20日生 出身地・ 鹿児島県熊毛郡 中種子町野間大平 
初土俵・ 昭和37年3月 井筒→陸奥部屋  四股名・ 渕上→薩摩海→薩摩洋→大寛→西ノ島→大寛  
最高位・十両4枚目  最終・昭和51年1月十両通算 21場所143勝172敗 得意手 右四つ、181cm 115kg
・野球が好きだったが、種子島高校 1年生の時に柔道部で最も大きい体格を見込まれて相撲部に駆り出され、鹿児島県大会で準優勝したのが評判に上り、井筒部屋の世話人から勧められて入門した。
四股名を変えること5回。大寛、たいかんとお坊さんのような名前で注目された。
横綱大鵬、柏戸が全盛時に種子島西之表市に地方巡業で故郷に錦を飾った時には、集落の人全員で竹ののぼりを持って応援に行きました。
大寛の祖母はテレビで放映されるのをまんじりともせず見つめて応援しておりました。
大寛の父母は入門してから引退するまで雨の日風の日台風の日を問わず1年365日、怪我のないように、勝ち越すようにとの想いを込め村の鎮守様にお参りしておりました。
現在大寛関は東京都練馬区にお住まいです。
    
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