種子島ヒ-ロ-大相撲
*横綱西ノ海・鶴ヶ嶺道義 薩摩洋時久兄弟・大関若嶋津・光法・日高大樹・若隼人・常の山・大寛関のページです。
★角界初の「兄弟関取 鶴ヶ嶺兄弟」誕生す。 | |
鶴ヶ嶺道芳薩摩洋時久 |
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9代井筒親方・本名・下家 道義 ・明治45年1月17日生・昭和47年3月18日(60歳)没 ・出身地 鹿児島県熊毛郡中種子町増田 ・初土俵・昭和6年5月 ・井筒部屋 ・四股名 種子ヶ嶌→星甲→鶴ヶ嶺 ・新入幕・昭和12年5月 ・最高位前頭2枚目 ・最終場所 昭和22年6月 ・幕内通算 20場所 99勝139敗24休 金星2個 ・得意手 左四つ、吊り、櫓投げ ・188cm 101kg ・年寄名 井筒 *四股名の云われ 幕内入幕を祝い四股名を星甲から鶴ヶ嶺とした。鶴は薩摩の名城鶴丸城にあやかった。体は名を表すの如く「痩身鶴の如く」と酷評されたが、左四つ吊り、突っ張り、外掛け、豪快なやぐら投げで多くのファンを魅了した。横綱男女ノ川、大関前田山を倒す殊勲をあげるなど活躍した。 *引退後、横綱鏡里の立田川部屋創設の際には井筒親方の的確な助言、援助尽力した。鏡里は終生感謝していたそうです。 *有能で篤実な人柄で双葉山の時津風理事長の補佐役で昭和24年5月〜33年1月まで9年間もの間勝負検査役を勤めた。病に倒れたとき、双葉山は心からその死を悔いたそうです。 星甲、関脇鶴ヶ峰、逆鉾、大雄、錦洋(大我)ら幕内力士を育てた。 ★薩摩洋 時久(さつまなだ ときひさ) 鶴ヶ嶺の弟 本名 ・下家 時久 大正7年5月5日生 昭和51年1月29日(57歳)没 出身地・鹿児島県熊毛郡 中種子町増田 初土俵・昭和12年 5月 ・井筒[部屋 最高位・幕内13枚目 最終・昭和19年 5月 幕内通算・1場所 5勝10敗 得意手 左四つ、吊り ・ 185cm 92kg *26歳の若さで引退し故郷種子島に帰る。兄鶴ヶ嶺が故郷に凱旋し父母の墓参りに来たときは雨の日だった。 弟の時久は兄が濡れないように傘をかかげ、濡れた足袋を真新しいタオルで拭いていた姿に相撲界の礼儀、兄を敬い慕う弟の姿に周りの村の人たちは皆、感激の涙をながしたそうです。 |
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◆光法賢一 二子山親方(貴乃花部屋) |
(画像HP) *光法 賢一(こうぼう けんいち)安治川親方→二子山親方(貴乃花部屋) 本名・峯山 賢一 生年月日 昭和48年8月18日 出身地・鹿児島県熊毛郡 南種子町島間 初土俵・平成元年3月 宮城野部屋 新入幕・ 平成13年11月・最高位 前頭10枚目 平成19年12月引退・安治川親方を襲名。弟弟子に横綱白鵬。 得意手 左四つ、下手投げ、寄り 183cm 132kg ● 建設業の長男で、小学校 4年生で剣道や相撲を始め、島間中学校では卓球部に所属したが 3年生の時から陸上競技を始め、砲丸投げで九州大会に出場した。 宮城野部屋後援会会員の親戚から勧誘された時には体育教師を志していたので断ったが、夏休みに上京して部屋に泊まって稽古をしている間に力士を志して入門した。 光法の名は、ひたちなか市の道明寺の住職が考えた 3つの候補から、祖父と父の名に入っている「光」が附いており父の名と同じ「みつのり」とも読むとの理由で選んだ。 左半身で寄るか投げる取り口だが、少し勝ち味が遅いか。明るい性格で幕下を通過するのに 7年頑張った根性の持ち主。 |
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◆若隼人幸治 |
★若隼人幸治(わかはやと こうじ) 本名・稲子 幸治 昭和46年1月3日生 出身地・ 鹿児島県熊毛郡中種子町今熊野 初土俵・ 昭和61年 3月 宮城野部屋 最高位・前頭3枚目 最終・平成14年5月 通算 27場所 190勝215敗 得意手 右四つ、寄り ・185cm 157kg ・稲子の兄は序二段でした。光法関の兄弟子です。 子供の時から相撲を始め、南海小学校 3年生から種子島地区大会で連続して優勝していて、南海中学校で柔道も始めた。 力士に憧れ、宮城野が 4回も訪ねて来て勧誘してくれた熱意にも打たれて入門を決意した。若隼人の名は憧れの北勝鬨に因んで兄弟子と相談して考えた。 現在故郷で介護福祉士として勤務 ★常の山勝正(つねのやま かつまさ) 本名 下村→橋本→下村 重和 昭和38年 1月29日生 出身地・ 鹿児島県西之表市国上 初土俵・ 昭和55年7月 出羽海部屋 四股名・下村→西の龍→西乃龍→常の山 新入幕・ 平成3年3月 最高位前頭12枚目 最終・平成5年 3月 幕内通算 5場所 29勝46敗 得意手 右四つ、上手出し投げ ・182cm 117kg ・常ノ山の遺族の婿養子となり現在大阪市にお住まいです。 農業と漁業を営む家の三男で、国上町中学校 1年生では野球部に、 2年生からはバレーボール部に所属した。 牧場主として酪農を経営する夢を持っていたが、福岡の電気会社に 3年だけ勤め、給料が少ないので中州の魚市場に転職し、同じ魚市場に勤める元 福田山に紹介されて入門した。 西乃龍の名は市ヶ谷の知人が姓名判断で命名した。軽量を大変な勝ち気と稽古熱心で補った。粘り強く食い下がって投げを打つ取り口だった。 ★大寛宗之(たいかん むねゆき) 本名 ・淵上 重昭 昭和19年10月20日生 出身地・ 鹿児島県熊毛郡 中種子町野間大平 初土俵・ 昭和37年3月 井筒→陸奥部屋 四股名・ 渕上→薩摩海→薩摩洋→大寛→西ノ島→大寛 最高位・十両4枚目 最終・昭和51年1月十両通算 21場所143勝172敗 得意手 右四つ、181cm 115kg ・野球が好きだったが、種子島高校 1年生の時に柔道部で最も大きい体格を見込まれて相撲部に駆り出され、鹿児島県大会で準優勝したのが評判に上り、井筒部屋の世話人から勧められて入門した。 四股名を変えること5回。大寛、たいかんとお坊さんのような名前で注目された。 横綱大鵬、柏戸が全盛時に種子島西之表市に地方巡業で故郷に錦を飾った時には、集落の人全員で竹ののぼりを持って応援に行きました。 大寛の祖母はテレビで放映されるのをまんじりともせず見つめて応援しておりました。 大寛の父母は入門してから引退するまで雨の日風の日台風の日を問わず1年365日、怪我のないように、勝ち越すようにとの想いを込め村の鎮守様にお参りしておりました。 現在大寛関は東京都練馬区にお住まいです。 |