種子島カップ

毎年7月中旬開催のヨットレース。鹿児島港-種子島西之表港

日本の島々の祭典
アイランダー 

毎年11月中旬池袋サンシャイン文化センターで開催

たねがしまロケットマラソン(毎年3月中旬に開催)

2003/3/21。1100人駆け抜ける−古田(中種子町)が総合優勝。*第17回たねがしまロケットマラソン(種子島1市2町、南日本新聞社など主催)は21日、南種子町の種子島宇宙センターをメーン会場に開かれた。
フルマラソンから2キロファミリーまでの5種目に、島内をはじめ29都道府県から約1100人が出場。火縄銃の号砲でスタートし、強風を突いて「宇宙に一番近い島」を駆け抜けた。
フルマラソン男子は古田健太郎(中種子町、野間中教)が2時間38分20秒で総合優勝、女子は若林直美(静岡)が3時間24分11秒で制した。
フルマラソンには男女約200人が出場。西之表市よきの海水浴場をスタートし、南種子町の種子島宇宙センターを目指した。
*中種子町の種子島こりーなを出発したハーフマラソンは、渡瀬良大(西之表市)が男子を制し、女子は長野タヅエ(同)が2連覇した。宇宙センター周辺では2キロファミリー、3キロ、10キロのレースがあった。
*ゲストランナーとして山梨学院大陸上競技部の4人がハーフマラソンと10キロに出場。ゴールでは初めて、同センター職員が宇宙服をまとってランナーを出迎えた。(3/22南日本新聞記事より)

種子島サンセット車いすマラソン(毎年7月中旬に開催)

第7回種子島サンセット車いすマラソン大会は16日、西之表市よきの海水浴場周辺の国道58号で行われた。昨年のアテネパラリンピック出場選手らが夕日に照らされた海岸線を疾走した。
*メーンのハーフマラソンには女子2人を含む37人が出場。アテネ出場の笹原広喜選手(31)=大分県=が45分52秒で初優勝した。同じくアテネ出場の広道純選手(31)=同=が2位。6人が参加した鹿児島県勢では坂元幸雄選手(21)=鹿児島市=が6位に入った。
優勝を狙っていたという笹原選手は「アテネ後のトレーニングで調子が上がっていた。スタートから積極的に仕掛けた」と笑顔。初めての長距離レース出場で30位になった中畑優太選手(16)=同市、指宿高2年=は「完走して自信をつけたいと思って出場した。坂が長くてきつかったけど、今までにない満足感がある」と話した。
*大会は「バリアフリーの島」を目指す実行委員会主催。島民ら約1000人がボランティアとして大会を支えた。スターターを務めた伊藤祐一郎知事は「生で見て、選手の大変さがよく分かった。選手とボランティアが一緒になって大会をつくることはすばらしい」と話した。(2005.7/17南日本新聞記事より)

種子島高校開校
種子島高校と種子島実業高校統合

種子島中央高校開校
中種子高校と南種子高校統合

2004.4月中種子中学校開校!
人口減少、昭和40年2万人→平成16年9800人の人口減少と少子化(中学生全数昭和40年1550名→平成16年319名)により、星原中学校、増田中学校、野間中学校、南界中学校の4校が統合して、中種子中学校として新校舎とともにスタートしました。
◆校章デザイン・・神奈川県横須賀市在住の飯塚幸男さん
◆中種子中学校校歌
 作詞は中種子町在住の鎌田とく子さん。作曲は中種子高校の音楽科赴任経験もある野間幹夫氏。
@南の風に 向かい立つ 希望の虹が こだまする 今こそ熱き 心で学べ 若人の夢 燃え立つところ ここは 中種子中学校
A光る朝日に 鳥歌う 気高く清い 百合の花 丈夫な体 豊かな心 若人の夢 育むところ ここは 中種子中学校
B空の青さに 映える海 歴史の絵巻 鮮やかに 澄んだ瞳で 未来を見つめ 若人の夢 はばたくところ ここは 中種子中学校
・絵画寄贈・・日高蔀氏 中種子町出身・屋外用テント2張り寄贈・・田元家嗣氏 中種子町大平出身
・掛け時計寄贈・・畠中博氏 中種子町竹屋野出身

種子島移住・動画    

種子島移住・空き家(古民家)情報問合わせ歓迎。無料です。
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*明治時代まで移住は「人移し」と言っていたそうです。
*「移住」と言う言葉の響きは田舎を感じさせるが、何あろう、東京大阪名古屋福岡など都会こそ「移住者」のルツボなのだ。北海道の99%以上は移住者だな。

*このページ参考資料・古市和義・井本正流著「種子島」・南日本新聞社著「太平洋にかける橋」・徳永和喜著「種子島の史跡」・南種子町制作「長谷開拓史」

*種子島原人の動画は、YOUTUBEチャンネル種子島原人で公開しております

★種子島移住相談は無料です。メールでお気軽に。










*種子島各地には○○移住記念碑。○○入植記念碑。○○開拓記念碑。など移住に関する記念碑が15以上あります。(七番、十六番など「番」の付いた集落名は、移住促進の国策事業で道路整備の区画番号の地域に開拓した人たちが住み着いたのが集落名になったものです) *画像バス停にその名があります
参考HP→ブログ鹿児島の自然と食

移住の島 種子島


  
★移住によって生れた集落新しい集落の誕生ですがこれが驚くべき数である。移住者の流動性から現況との食い違いも多少あるが移住の占める質量の高さがうかがえる。以下()に集落名を記す(資料・鮫島正孝氏) 
*西之表市
(久保田、自石、野木の平、上の古田、桜園、柳原、石堂、川氏、桃園、竹鶴、鞍谷、岳の田、古田上之町、七番、平園、平山、芦野、植松、高山、小牧、野木、千段ノ峰、生姜山、十五番、十六番、十三番、万波、二本松、番屋の峰 以上)
*中種子町
(砂中、二十番、池の平、伏の前、横町、旭町、西之山、新町、長谷、原尾 以上)
*南種子町
(新長谷、赤石、摺久保、第一長谷、長谷野、有尾、焼野、野犬野、上瀬田 以上)

種子島移住の歴史
種子島に古来から日本各地から移住者がやってきた理由は
@島の面積に対して居住者が少ない。 
A島が平坦なため開墾できる原野が多い。 
B夏の暑い時期でも台風が通過するため雨が降り水不足がおきない。 
C降った雨は土地が平坦なため土に浸透する時間が長い、表面は黒土が多く(下の土層は火山灰で水が地下深く浸透しやすい)保水率が高い。 
D種子島の人は人情が厚くよそ者を排除する気風がない。 
などは政府も把握しており国庫事業として推進した史実もある。 よって現在、移住者の血の混じらない種子島人は皆無。

★695年5月11日(持統9年3月23日) 
務広貮・文忌寸博勢と進広参・下訳語諸田らを多禰(種子島)に遣わして、蛮(ひな・一般人)の居所を探させた。<持統天皇(51)出典>「続日本紀」巻第三十

★1201年(鎌倉時代初め建仁元年) 
種子島を統治するために派遣した代官(守護代、地頭代)で松下、田中、三浦、徳永氏などと同行した家来100余人(鎌倉幕府北条氏から南海12島を治めるように言われた肥後守時信→改名し初代種子島信基〜4代真時は鎌倉にいた)
島主が種子島に下向し居を置き直轄したのは第5代種子島時基以後である。

★1536年8月15日前後(室町時代末期天文5年)
京都、岐阜より刀鍛冶、矢板金兵衛清定、福島県白河より日本初の火薬に調合した笹川小四郎重秀など移住。

◆明治17年 鹿児島県揖宿郡山川から岳の田集落に6戸
◆明治19.20年 国庫事業 鹿児島県甑島から1379人
           飢餓救済のため島内各地に移住実施。
◆明治19年 坊の津から19戸
◆明治28年 奄美大島、徳之島、沖永良部島から数個
◆明治30年 香川県から10戸
◆明治35年 各地から10数戸
◆明治42年 静岡県から365戸2193人(松下助七、松下清作、栗田 茂三郎他種子島に
         茶業を根付かせる)
◆明治43年以降 喜界島、与論島から37戸(西之表市芦野集落、植松集落)。沖縄からも
◆大正3年鹿児島県事業 桜島爆発により桜島村から336戸2193人 
◆戦後 国庫事業 昭和21年以降 戦争終了により開拓地を求めて全国各地から島内
  各地に移住。(パラオ諸島で従軍の日本兵、台湾、朝鮮、樺太、北海道、山形、福島、
  静岡、愛知、石川、大阪、兵庫、高知、福岡、佐賀、などから174戸 900人。
  甑島からは特に多く182戸)
◆現在 サーフィン、シーカヤック、ダイビングなどマリンスポーチ関係の若者の移住者が増えています。







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