長浜海岸
(中種子町―南種子町)

断崖や奇岩、洞窟などが多い東海岸に比べ、種子島の西海岸は砂浜が連続する穏やかな景観。
浜津脇港の南方から全長約12kmにわたって延々と続くこの浜辺は、西海岸を代表する白砂の海岸の一つだ。
毎年5月上旬〜8月上旬にかけて、ウミガメが産卵にやってくることでも知られ、近くの小学校ではウミガメの孵化・放流を行っている。なお、ウミガメを捕まえたり卵を持ち去ることは保護条例で固く禁止されている。
また、産卵期のウミガメはデリケートなので刺激しないように注意。






















ここにも種子島    

 フランシスコザビエル、伊能忠敬、円鏡平螺鈿背、さつまいも、サトウキビ、ドラメルタン号のページです。

フランシスコ・ザビエル・種子島寄港
*聖人フランシスコザビエルは、日本からの帰途1551年11月の末1週間種子島に寄港していた。当時の赤尾木の港にある慈恩寺宿坊(現在の八坂神社跡)で休んだことだろう。
*種子島赤尾木(西之表港)は、遣唐使船の食料、燃料、休養のための寄港地として賑わっていた。

伊能忠敬 種子島を測量する
 *日本地図を創ったのは伊能忠敬はみんなが知っているが、種子島も測量し作成したことはあまり知られていない。
種子島の測量は1812年、文化9年4月26日から5月22日までの僅か26日間で作成した。
製作に携わった者197名。現在の地図と殆ど同じものです。
*伊能忠敬55歳のときに日本の測量を始め、種子島測量は67歳のときでした。皆さん負けてはいけませんね 。
          
↑京都大学附属図書館所蔵 大隅国熊毛郡種子島沿海之図(クリック拡大します) 伊能忠敬種子島測量を記
念した「INOウォーキング」動画


ポルトガル人が種子島に伝え日本全国に伝播したもの
*ポルトガル人が種子島に伝え日本全国に伝播したものは
アラブ馬、カステラ(ポルトガル風焼きパン)、明国風蒸しパン(饅頭)、タバコ(吸うのではなく止血薬、消毒薬として使用)、樟脳油(香料の材料にしこの香料を「種子島」と呼んだ)、
洋風ハサミ伝わる。洋風ハサミを日本人用に改良(支点を中央)にし、切れ味を良くするために刃にネジレを入れたのが種子ハサミである。なかなかやるねー種子島人は・・。
ポルトガルの種子島広場



*種子島西之表市の姉妹都市ヨーロッパ最南端、ポルトガルの都市ヴィラ・ド・ビスポ(司祭たちの村の意味)の市役所前広場は「種子島広場」と言う名です。
円鏡平螺鈿背(えんきょうへいらでんはい)
*径26.8cm.縁厚0.8.重さ2357g 正倉院保管 国家珍宝帳所蔵の品である。

*鏡背に螺細で花紋を表した鏡。花心には赤い琥珀を、紋様の間地は黒い樹脂様の物質には青いラビスラズリや白、水色のトルコ石の細片を散りばめている。
*この品は奈良天平5年4月3日(733年5/20)遣唐使が唐の蘇州に出発し、翌天平6年11/20種子島赤尾木港(西之表港)に110余名が無事着いて、多くの文物を持ち帰ったその中のひとつである。
*持ち帰った人の中に吉備真備(きびのまきび)がいた。彼は次の752年遣唐使で再び唐に渡り天平宝勝5年12月7日屋久島に帰還し鑑真和尚の渡来を叶えた。
*島では到着の3ヶ月も前から夜のかがり火を絶やさず島の磯や浜に「立て札」が立ったと言う。
(南種子町出身 古市和義さん記事提供)
種子島・日本最初の甘藷(さつまいも)の栽培
 カライモの神様 種子島久基動画


*1698年、(元禄11年3月)19代島主種子島久基が島民の貧しい生活を救済しようと、琉球(沖縄)の王、尚貞
王(しょうていおう)に懇願し一ツルの甘藷を貰いうけ栽培(石寺村の大瀬休左ェ門が試植成功)したのが薩摩藩
をとおして全国に普及した為にサツマイモの名で呼ばれるようになった。

「種子島芋」と呼ばれても良かったのではないか・・・。種子島ではさつまいもとは言わずにカライモ(唐芋)と呼
んでいる(沖縄では唐芋=とういも)。


*久基はこの功績により36歳で島津藩大目付、国家老と要職を歴任した。「島津の名家老」と後々の世までそ
の名を残した。

*ここで重要なのは、日本でタダ一国、種子島島主が何故琉球国と貿易が出来ていたかである。14代島主種
子島時尭に琉球王が好意を示し1511年(大永元年)毎年一艘分の貿易を許可して依頼続いていたからである。

*琉球ではこれより100年も前から甘藷は栽培されていたが、大和人(やまんちゅ)は、あれは「土民の食べ物」
と宗教的偏見と食わず嫌いから伝播していなかった。久基は大和人で初めて?甘藷を口にし「かほどに有用な
芋がこれまでまったく本土に知れ渡っておらなかったとは信じられぬ」と譲り受けたのであった。

*現在、種子島原産品種「種子島紫」は大腸ガンの予防に効果絶大ということが医学的に証明されています。
種子島は鉄砲に続きまたもや江戸時代の飢きん、戦中戦後の食糧難時代を乗り切る元になり日本を救ったの
であ〜る。大したものだね〜種子島人は!。

島主久基のオクリ名(死んでからの名)を栖林(せいりん)と言い西之表市に栖林神社として祭ってあります。
ちなみにさつまいもそのものはコロンブスによって1492年アメリカ大陸で発見されたものである。
 安納芋収穫〜芋焼酎の出来るまで動画

 (画像↓マイマイさん HP→めざせ島人)
さとうきび(オオーギ)の栽培
   (オオーギは荻の変化したもの) オーギ切り動画すへて→→ココ




さとうきびは、とうもろこしに似た太い茎を持つイネ科の多年生植物(茎の水分に砂糖が含まれている) 種子島では「オオギ」と呼んでいる。
語源は「荻、おぎ」が変化したものです。一説に葉の形状が扇に似ているからがあるがこれは当て字にしただけのことで間違いです。
*砂糖の種類
原料サトウキビ→圧搾→しぼり汁→遠心分離機→分蜜糖→原料糖(祖糖)→製瀬糖→車糖→上白糖、中白糖、三温糖。また精製糖→加工糖→角砂糖、氷砂糖、顆粒状糖。また精製糖→双目糖→白双糖、グラニュー糖。

*さとうきび伝来史
1609年奄美大島に中国より伝来。1825年種子島で栽培。
1828年島主種子島久道のとき砂糖の製造始まる。
1883年西之表市出身の鮫島和七郎が木の歯車の2倍の搾取の石車を製造(木車、石車の台座は中種子町立歴史民族資料館にあります)。
1966年(昭和41年)野間大平の里道春氏がさとうきびのマルチ被膜栽培創める。

・甘しゃ糖・さとうきびから出来る砂糖。
・てん菜糖・ビート、砂糖大根から出来る砂糖。鹿児島県、沖縄県以外の地域で栽培。
・砂糖になるまでの過程
・さとうきび⇒製糖工場⇒原料糖(粗糖)⇒船で精製工場⇒精製糖(グラニュ糖)。くるま糖→上白糖、中白糖、三温糖⇒あなたの口に。
・日本の製糖、精製工場は52あります。

・砂糖の特長・・労化を防ぐ、腐りにくい。乾燥しにくい(100gの水に200g溶ける)従ってカステラ、アンなどは何時までも水みずしく固くならない

・種子島での生産量21.426トン(鹿児島県79.817トンの26.8%) 日本全体の供給量の0.8% ちなみに沖縄県は100.611トン。日本全体の供給量の4%

・1kgの砂糖を作るのに8.5kgのさとうきびが必要である。10アール(1反)では8トン収穫ですから900kgの砂糖が精製されます。
・日本人1人あたり砂糖1年間消費量・・19.2kg。
・輸入国・キューバ、オーストラリア、フィジー、タイ、南ア共。
輸入量・1.604.044トン(66%)。生産量・・869.880トン(34%)の内訳(甘しゃ糖・・189.697トン・・21.8%。てん菜糖・・679.829トン・・78.2%)

・1kg価格の比較・・輸入糖は35円。てん菜糖は89円。甘しゃ糖は269円。
差額は国の補助金により助成されていますが、輸入自由化、規制緩和により楽観を赦さない状況である。(数値は1998年参考
ドラメルタン号漂着記念碑とインギー鶏南種子町
 ドラメルタン号動画(ドラメルタン号→明治時代はドラムエルタン号と称していました)



 皆既日食でインギー鶏動画


*明治37年4月25日夜南種子字前之浜の塩炊き小屋にいた島民一人が、沖あいで海面を打つサーチライトの閃光に驚倒する。
ホラ貝を吹き嶋らし集落の人々を集めて談合を重ねた末に、村の若者12名が船まで泳ぎ調べることとなった。
しかし、船に渡った12名と船員たちの問で意志がまったく疎通しない。そこで英語を解する茎南小学校訓導(校長)の伊地知茂七先生をつれてきて筆談が始まった。

*船底を破損していた船は英国船リバプール船籍ドラメルタン号とわかった。乗組貴29人を乗せ、東シナ海々上を香港からアメリカに向け航行中、台風に遭遇して漂流が始まったらしい。
29人のうち16人は5月3日に長崎に護送されたが、コーウェル船長以下13人は船とともに島に残った。その後六月半ばまで近在の下中真所の村人たちは、彼らを助けて船の修理と2ヶ月間に及ぶ生活のめんどうをみたのである。

*別れに際し、乗組員たちは船内で飼育していた中国広東省英陽鶏16羽を村人たちに寄贈した。
冷蔵庫が整備されていない当時、外洋航路帆船は甲板上に鶏小屋、豚小屋などを備え一また寄港地で食料を補充しながら航海していた。
乗組員が贈った鶏は、そうした中から選ばれたものだった。

*このときの16羽の鶏の末裔が、いま南種子の真所集落、里集落で飼育されている「インギー鶏(中国広東省の英陽鶏)」である。インギーとは島の訛りでイギリスのこと。南種子の人たちはこのイギリス人船員の置きみやげを大切に守り育てたのだ。
インギー鶏は卯肉兼用の品種で、卯をたくさん産み肉柔らかくおいしいことから付加価値のある高級食材として、現在南種子で数人の人たちが50羽ほどを飼育している。

*種子島は海をベルトコンベアーにして、さまざまな異文化が流れ寄るこの国の玄関口のような存在としてあったのだ。鉄砲という先端科学兵器の伝来もまた、同様の流れの一支流としてとらえることが出来るのではないか。
 (記事・日高恒太朗さん)

 
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