真実の鉄砲伝来  鉄砲伝来史書は「鉄炮記」ただ1冊です。

1543年 鉄砲伝来以来470余年 ポトガル船、到着地は門倉岬、二千両で購入、ネジの技術教授交換で若狭を嫁に出した、姫でもない若狭の「若狭姫」の記述など 後世の方の脚色脚本が正統歴史のようにはびこっていることは誠に情けない。


種子島の大ウソ! 全国TV放送されるH29.4.14 動画



「鉄炮記」原本国会図書館所蔵「鐵炮記」



「鐵炮記」現代語訳ナレーション(これが真実! !南浦文之著・鐵炮記) 

タレントの役作りのために架空の人物設定する歴史大河ドラマもある「余計なものは足さない加えない・・」というウイスキーか何かのCMがあったが シンプルというものは人の気をひかないものらしい。情けない。 動画




鉄砲伝来地は門倉岬 と勘違いするのはこの岬にある「鉄砲伝来紀功碑」という石碑を見て「ここが鉄砲伝来地」と大いなる勘違いをする方が多いためとも思われる。

それを著作物に掲載するものですからなおさらです。 紀功碑とは功績を記した碑「種子島に鉄砲伝来しましたよ」という記念碑ですから種子島のどこに建立してもよいのです。

「種子島最南端の地 門倉岬」なら理解できますが。歴史のハヤトチリは困ったものです。




門倉岬の「鉄砲伝来紀功碑」はこうして出来た。

この資料は15年以上前に古書店で数万円上で手に入れました。

以下・・「鹿児島県熊毛郡の主島たる種子島は、西之表町、中種子、南種子村の三ツに分轄されている。

島の西南にある門倉崎の近傍、御崎神社の境内に「鉄砲伝来紀功碑」が建てられてある。

朝倉丈夫の製作で、高さ九尺、大和石を使用し、上部に当時の鉄砲の弾丸を並列し、下部に当時から伝わる種子島(鉄砲の異名)を横にはめてある。

初め記念碑の建設を有志が計画したが、資力に欠けて頓挫せんとした、それを聞いた松浦厚伯(あつしはく 松浦三十八世)が金六千円(当時千円は約635000円×6=約381万円)を贈ったので昭和二年完成した。

松浦家は肥前平戸の旧落主で、ことに松浦式部卿法印鎮信(まつうらしぎぶきょうほういんしげのぶ)は(五峰=王直との貿易)で種子島鉄砲伝来に間接なから深甚の由縁があった」

(注)上部に当時の鉄砲の弾丸を並列し・・現在は剥げ落ちてない。

   下部に種子島(鉄砲の異名)を横にはめてある・・現在確認は見えない。




種子島最南端は「熊毛埼」、種子島最北端は「きしの上崎」だった(1703年元禄15年「大隅國」地図。赤穂浪士の年です。

門倉岬の名前は1812年、文化9年 伊能忠敬が種子島測量以後の名前だった。それ以前は「熊毛埼」と呼んでいた。

浦門英徳さんの記事(島間沿革史)で「伊能忠敬南隊同行の「門倉一太」が崎原村で困難な測量を指揮実施し、その地を「門倉岬」とした。とあり、ハッ!!として理解できた。

鉄砲伝来時には現在の門倉岬という名称はなく熊毛埼。鐵炮記には熊毛埼は無く、西之小浦に着いた来た(入港)ことに疑いは無い。

国立国会図書館所蔵。拡大すれば 熊毛埼、「きしの上崎」が見れます。他の地名の漢字も現在と違う場合が見られます。



鉄砲伝来史書は「鉄炮記」ただ1冊です。

ポルトガル船 門倉岬 二千両 若狭 など一切史実にはありません。後世の著名な作家、郷土歴史研究家と名乗る方の脚色した間違いが定説化していることは 鉄砲伝来以来470余年の経過している今日慚愧に耐えません。 「鐡炮記」現代語訳 古市和義提供


「鉄炮記」(てっぽうき)現代語訳   種子島久時公に代わって


大隅国(鹿児島)の南にひとつの島がある。大隅半島からは十八里の彼方で、名付けて種子島(たねがしま)という。我が先祖は代々ここに住んでいる。古くからの伝えによると、種子と名付けたのは、この島は小さいが、諸々(庶・もろもろ)の民が住み、それぞれに豊であり、それは播いた種が芽を出して生き生きと生い茂り、豊かな恵みを与えているかのようだ。そんな様子になぞらえて名付けたものであろう。

天文十二年(発卯・一五四三)の秋、八月二十五日に西村(西之村)の小さな浦(前之浜)に巨大な船が現われた。どこの国のものか分からなかった。乗船していた者は百余人であったが、その容貌はこれまでに見たこともなく言葉も通じず、村の皆は奇異の目で眺めた。その中に明国の儒者で五峯(ごほう)という者がいた。名前以外の姓字などは詳らかではなかった。また西村(西之村)の主宰(村長)で織部丞(おりべのじょう)という者がいて大変よく文字(漢字)を理解できた。

織部丞(おりべのじょう)は偶然五峯(ごほう)に出会い、杖(つえ)で砂の上に文字を書いて尋ねた。「船中の客はどこの国の方ですか。顔形といい、とても変わった方たちですが」と。

五峯(ごほう・王直)も砂に返事を書いた。「この方たちは異国の商人(西南蛮種の賈胡・葡萄国商人)です。身分の上下については大体わきまえていますが、細かい礼儀作法については知りません。ですから、酒を飲むにも杯を使って飲まず、食べるときも箸を使って食べません。ただ、いたずらにその気持ちの赴くままに嗜欲(しよく)にふけるばかりで、漢字で意思を伝えあうこともできません。ふつう商人達は、ひとつの場所に来て、そのままそこで商売をするものですが、彼らもその類です。持っているものをそれが無いところに持っていって商売を行います。怪しむような方々ではありません」と。

ここでまた織部丞(おりべのじょう)が書いて言うには、「ここから十三里(五十一粁)の所に一つの津(港)があり、赤尾木の津(西之表港)と言います。数千戸の家があり、どの家も豊に栄えて商いもまた盛んです。今、船はここ(前之浜・種子島南端「門倉岬」手前)に停泊していてもよいのですが、いずれ深さがあって波の立たない大きな港に入れなければならないでしょう。このことを私が仕える種子島恵時(しげとき)様と時堯(ときたか)様にお伝えしましょう」と

 時堯(ときたか・十四代島主・種子島時堯)はすぐに数十艘の船を用意し、これ(明国船)を引かせて、二十七日の十時(巳刻)に赤尾木の津(西之表港)に入港した。その時、港には長老(首座)らしき者がいた。日向国(宮崎)の龍源寺の修行僧で、法華一乗の研修のためにこの地に滞在し、禅宗から法華宗の僧となって住乗院と名乗っていた。経書(儒教経典の四書五経)に詳しく、また筆も立った。そこで五峯に会って文字で意志を伝えあった。五峯は「異国の地に知己を得た」と喜んだ。言葉と気持ちが通じ合ったのであろう。   

 異国の商人の中に二人の首長がいた。一人は牟良叔舎(ムラシュクシャ)であり、もう一人は喜利志多侘孟太(キリシタダモタ)であった。手にはあるものを携えていた。長さは二、三尺あり、その様子は中が空洞で真っ直ぐ伸び、非常に重い素材でできていた。中は貫通していたが、底の方は固く密閉しなければならないものだった。横には穴が一つあって、そこから火をつける。他にその形には似たものを見つけられない代物であった。使い方は小さな鉛の弾と、ある薬を入れるのである。杯(的)を岩の上に置き、(鉄炮を)構え目を細めてその穴から火を放つとたちまちそれに当たるのだった。その光は稲妻のようで、また音は雷鳴のとどろきに似て、聞く者は誰も耳を覆うのだった。杯を置くのは、弓を射る人が黒い点を的の中に置くのと同じことである。これをひとたび撃ったなら銀山も砕くことができるし、鉄壁に穴を開けることもできるだろう。     

人の国に災いをもたらすような邪悪な者も、これによればすぐにその魂を失うことになるだろう。まして苗を盗んだりする田舎者などひとたまりもない。その使い方は数えあげればきりがない。時堯はこれを見て「世にも珍しい物だ」と思った。初めはその名前も分からず、その使い方も詳しく分からなかった。それを最初に鉄炮と呼んだのは明人なのか、それとも島の者なのかも分からなかった。         

ある日、時堯は明国(中国)と南蛮の通訳(重訳)を介して、異国の商人(蛮種)の二人に言った。「私はこの鉄炮をうまく使いこなせないので、できれば使い方を学びたいのだが」と。彼らもまた通訳を介して答えた。「殿様がこれを学びたいのであれば、私達もまた奥義を詳しくお教えましょう」と。

時堯は言った。「その奥義とはどういうものか」と。彼らは答えた。「それは心を正すことと、片目を閉じるだけのことです」と。

時堯は言った。「心を正すということは先聖(孔子)の教えにもあることであり、私もそれを学んだことがある。およそ天下の理(ことわり)でありどんな言動もこれに違えてはいけない。あなたの言われる心を正すということも、またこれと同じ事であろう。けれど、片目を閉じると遠いところが見えなくなってしまう。どうして片目をとじるのか」と。

異国の商人(蛮種)も通訳を介して答えて言うには、「物事には、おのずと出来た手順や決まりがあります。広く見るだけでは良く狙えず、片目を閉じるのは余分なものが見えずに、遠くの的が明らかになりましょう。その決まりを守ることが肝要です。殿さまもご理解くださいませ」と。

時堯は喜んで言った。「老子の言う、小を見るを明と曰い(見小曰明)、というのはこのことであろうか」と。

 この年九月の節句の日(九月九日)、良い日柄を選んで試し撃ちを行った。火薬と小さな鉛の弾をその中に入れて、的を百歩の距離の所に置いて引き金を引くと、たちまちのうちに的の近くにほとんどが当たるのだった。見ている人は初め驚き、次には非常に恐れ、最後には肩を寄せ合いながら言った「この使い方をぜひ学びたいものだ」と。

 時堯はとても手が届かないほど値段が高いにもかかわらず、すぐにその異国の商人(蛮種)の二挺の鉄炮を買い求め家宝とした。その火薬の調合の方法については家臣の篠川小四郎に学ばせた。時堯は朝な夕なこれを磨き手入れが止むことがなかった。以前にはほとんど近い所では当たっていたのが、今では百発百中、一つも外すことがないほどの腕前になっていた。さて、この頃、紀州(和歌山)の根来寺(ねごろじ)に杉の坊某公と言う者がいた。千里の道も遠しとせず、鉄炮を求める気持ちが強かった。時堯は、その熱心さに感服し、その気持ちを推して言った。

 「昔、呉の国(中国)の徐君(じょくん・徐の王)が、友の季札(きさつ)が持っている剣に心を奪われた。徐君は口に出して言わなかったが季札はその心を察し、ついに剣を贈ったものだ。我が島はとても小さいが、どうして物を惜しむ事があろうか、いや惜しまない。そしてまた、自ら求めずして思いがけず得たものは喜びで寝ることができず、何重にも包んで大切に保存するものだ。もし自ら求めに来て、得ることができないとしたら、どんなに残念なことであろう。私自身も欲しいと思うのだから誰でも欲しいのであろう。私はこれを自分だけの物にして箱に納めてしまっておくようなことはしない」と。

すぐ津田監物(算長・つだけんもつかずなが)にその鉄炮を持たせて遺わし、紀州の根来寺の杉の坊に贈った。また、火薬の調合の方法と発火の方法なども教えさせた。

時堯は鉄炮で(玩具のように)遊んでいたが、やがて鉄匠数人を集めて、形状をじっくりと観察させた。試行錯誤や鍛錬をへて新たな鉄炮の製造を切望した。とても似た形のものはできたが、遂に、その底を塞ぐ方法を知ることはできなかった。

 その翌年(一五四四)、異国の商人(蛮種の賈胡)が再び種子島の熊野の浦に来航した。この浦を熊野というのは、小廬山・小天竺などと同じである。その商人の中に幸いにも一人の鉄匠がいた。時堯はこれを天の助けとも思い、すぐに金兵衛清定(八板金兵衛)という者にその底の穴を塞ぐ方法を学ばせた。ようやく何カ月もかかって、そのネジを巻いてこれをはめ込む方法を修得した。こうして一年余りで新たに数十挺の鉄炮を製造した。その後は台座の形や構造と、その飾りの鍵と錠のようなものを製造した。時堯の目的は、その台座や飾りの製作ではなく、行軍の際に実戦使用することにあった。それ故に島の家臣達はこれを見て習い、百発百中の腕前になる者が数え切れなかった。                                

その後、和泉国(大阪)堺の橘屋又三郎(貿易商人)という者が  来島した。商人であり種子島に居住すること一、二年にして鉄炮についての全てを学んだ。堺に帰郷した後、人は皆その名前で呼ばずに 鉄炮又(てっぽうまた)と呼ぶほどであった。その後、畿内の国々では、皆がこぞって鉄炮を伝え使い方を習得した。また関西だけでなく関東にも広まっていった。

 私(種子島久時自ら)はかつて次のことを故老(古老)に聞きました。「天文十二年(壬寅)から十三年(癸卯)にかけて、明国(中国)への朝貢船(遣明船)の三大船が、まさに出帆しようとしていた。この時、畿内以西の富豪の子弟で乗船していた者は約千人近く、また船の操縦に長けた者が数百人も乗り組んでいた。船は我が島で出港準備をして、船出に都合の良い日を選んで、纜(ともずな)を解いて大海原に乗り出して行った。ところが不幸なことにひどい風が海上を吹き渡り、怒涛は雷のようになって船に襲いかかり、坤軸(こんじく=地軸)もまた砕けるかのようであった。もう今や最期の時というような有様だった。船の一艘(第一船)は檣(ほばしら)も傾き、楫(かじ)は砕け、粉々になって海に沈んでしまった。また第二船は命からがら明国(中国)の寧波(にんぽう)に到着することができた。最後の第三船はこの嵐を乗り切ることができず、仕方なく種子島に引き返して帰りついた。

そして翌年、再びその第三船は纜(ともずな)を解いて出帆し、南に向かって航海し、遂に明国に着くことができた。数え切れないほどの財貨と異国の珍しいものなどを載せて、帰国しようという時、大洋の中で暴風が吹きまくり、西も東も分からなくなるほどであった。

船は遂に漂流して東海道の伊豆にたどり着いた。そこでは土地の者が船の財貨を盗み取り、商人達もまたその居場所もなかった。 

さて、船中に我が種子島家の臣下で松下五郎三郎という者がいた。手には鉄炮を携えていた。これを撃つとその全てが的に当たるのだった。伊豆の人々はこれを見て非常に驚いた。そしてその鉄炮についてその術をうかがい、また真似て学ぶ者も多かった。この後、関東八州と言わず全国津々浦々にこの鉄炮は伝わり、これを習わない者はいないほどであった。

 今、この鉄炮がわが国に伝わってからおよそ六十有余年である。白髪の老人でこの事をはっきりと覚えている者もいる。つまり、異国の商人(蛮種)が持って来たこの二挺の鉄炮を我が父の時堯が買い求め、その使い方を学び、そのことによって日本全国六十余州を大いに驚かせ、次には鉄匠にその製造方法を学ばせて、五畿七道(ごきしちどう)に普及させたのである。すなわち日本における鉄炮発祥の地は我が種子島であることは明らかで、昔一つの種から生き生きと生い茂ってゆく様子になぞらえて種子島と名付けたのであったが、今鉄炮の事を考えると、この名前は正に予言的な名前と言えよう。                  昔の人は言っている、有徳の先輩が善いことを成したのに、世の中に知れ渡らないとしたら、それは後世の者の過ちであると。因ってこれを書いた。    

  慶長十一年九月九日(丙午重陽節)


注釈●西村の織部丞と五峯のやり取りで「之を我が祖父恵時と老父時堯とに告げん」は、文意に従い織部丞の言葉「このことを、私が仕える種子島恵時さまと時堯さまにお伝えしましょう」に直した。久時が南浦文之に直接伝えたものか。

注釈●時堯と五峯の通訳は住乗院(龍源寺の修行僧)、五峯と異国商人(葡萄人)二人の通訳は既に明国船に乗っていた。

解説●『鉄炮記』は十六代島主・種子島久時が、父・種子島時堯(28-1579(52)の鉄砲伝来(1543)の顛末を後世に残すため、島津に仕えた僧・南浦文之に依頼して、慶長十一年九月九日に完成した国内唯一の史料である。種子島久時(1568-1612(44)は秀吉の朝鮮出兵(1592/1593)を体験して、鉄炮の威力を知る。(鉄砲伝来年論争や異国商人数論争は歴史の本質とは無関係である)

南浦文之(文之玄昌)は島津三代に仕え、幕府・琉球・明国など対外文章を担当した。603年には駿府で徳川家康に見え、後水尾帝に召され宮中で四書の新註講を行う。示源流を命名。日本一や日本晴れの初見、屋久島聖人・泊如竹の師匠。

解説●天文十二年八月二十五日は、ユリウス暦一五四三年九月二十三日である。

伝来●天文十二年八月二十五日、明国船の五峯(王直)が種子島の前之浜に来島し、乗船していた異国人(葡萄人)が鉄炮を伝えた。

2017/05/01●『鉄炮記』現代語訳 Text by cKazuyoshi Furuichi 2017                            古市和義







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